病室に入ると彼女は眠っていたが、やがて目を覚ました。
おれをみて、にっこりと笑いかけてくる。
身体を起こして若草色のカーディガンを羽織ると、彼女は窓を開けてくれませんか、と言った。半分だけ閉じられたカーテンを引いて窓を開けると、すこし涼しい風が入ってきた。 風で黒くて長い髪が揺れている。
「弟が死にました」
おれは彼女の家族を見たことも無ければ、彼女に弟がいることさえ知らなかった。おそらく、この病院内で知っている者は担当医くらいではないか。屋上の少年によれば、彼女の両親やその周りの人間は、彼女を厄介払いとして入院させていた節もあるという。大きな家だから男に重きを置くのだと。
「あそこへ登り詰めたとき、あの煙突から白く頼りなげに揺れている煙を見た気がして、それが悲しかった。‥気がついたら病室でした。驚かせてごめんなさい。死のうとしてた訳じゃなかった。」
「でもね先生、本当はね、死のうとしていたのかもしれません。身体がそれを求めているのが分かった。それが怖かったから、泣いたのかしら‥弟のためかしら‥。
今となってはわかりませんけれど‥。
ずっと入院していて、それこそ死にかけたことだってあったのに‥涙が出たのは初めてでした。不思議なものですね。」
頷いてうん、と答えると、彼女はつられたようにまた笑った。
「高杉っていう少年から伝言。墓は探しておく、と、行く場所が無いならうちの知り合いに面倒を見てくれる人がいる、の二つ。」
「‥ありがとう」
彼女が片手を差しだすので、その白い手を握った。別れの握手だ。
「ねえ坂田先生、あの木の名前を知っていますか?
‥わたしの弟の名前はね、もくれんというの。」
病室を出ると土方が立っていて、その横に少年がいた。
「もう大丈夫。意識もしっかりしてる。」
二人とも眠たそうで疲れた顔だ。
「分室帰ってコーヒーでも飲むかー」
少年はおれたちがあの屋上に行ったとき、屋上から繋がる梯子を使って煙突に腰かけ、例の煙突の方を見ていたのだった。
そこで何もかもが分かった。彼は彼女の遠い親戚で、話を聞いたときに一番に気がついていた。確かめるためにここに来た、と話した。
彼女はあの工場から、少し離れた場所にある葬儀場の煙突を見たかったのだ。自分の弟が煙になって消えて行くのを見たかった。あの工場がずっと前から動いていないこと、それからここらの建物では一番高いことを知っていたから登ったが、屋上に着いたところで身体に負担がかかって倒れた。
あっけない真相だ。
きつめに淹れたコーヒーは目の奥がしびれるようで気持ちよかった。
「お前、あんなとこ登るなよ、通報されるぞ」
カフェインを摂取してすこし頭が回ってきたのか土方が高杉少年に言う。
「通報されたらあんたに補導されんのか?」
「しねえよ」
「弟さんとは面識あったのか?」
「ああ、たまに親戚が集まる時にな。あいつが一番、姉のことを憶えてた。他の奴はみんな忘れたみたいに振る舞ってたけど‥でもまあ、今となってはその方が都合がいいな。あの人はやっと外へ出られる。」
朝日を見ながらのコーヒーというのもいいものだ。これから寝られるなら最高だ。
「墓のこと、頼むな」
「ああ」
「おい坂田、毛布かせ。寝る。」
「えー」