ずっと何かの音が聞こえているつもりだった。けれどいつのまにか土方の意識は途中で途切れていて、目蓋も重たくなってしまっていた。ぐっと眉間に力を入れて、なんとか薄目をあける。どれくらい眠っていたのか、身体の内側からじっとりとした痺れを感じた。
明るい方に視線を向けると、キッチンに坂田がいた。その後ろには高杉の絵が見えた。デフォルメされていたが、がりがりの宇宙人のような、少年にも老人にも見える人間が描かれていた。二人して同じ方向を向いていて、ぼんやりと何かを見ているように見えた。どうにも、おかしな光景だった。その先には冷蔵庫しかないはずだけれど、なにを見ているんだろうか……。そう考え出すと、二人ともひどくお腹を空かしているように思え、奇妙に可愛く見えてきた。けれど残念ながら、高杉の冷蔵庫にはもうなんにもない。日本画用の膠(にかわ)が申し訳程度にあるだけだ。なぜなら鍋のために買ってきた食材も酒も三人でとっくに食べ尽くしたのだから。仕方がない。
随分とアルコールが回っているらしく、なんとか目蓋はあけたものの、頭を持ち上げる気力は湧いてこなかった。土方の脚には誰かの脚が無遠慮にのっけられていて、確認しなくともそれは高杉だった。ここからだと後頭部だけがかろうじて見える。土方と高杉は顔見知りではあったが、学科も違ったし、こんな風に密着することを許しあうほどの親しさではない。第一高杉がこんなだらしないことになっているなんて意外だった。なんとなくもっと潔癖な奴だと思っていたからだ。けれど、ひとえに酒の力なんだろう。土方だって、頭も上げられないほどにぼろぼろに呑んだことなんてなかった。
(坂田ってあんなに呑ませる奴だったか…?てか、あいつも俺と同じくらいは呑んでるはずだよな…………)
冷たいガラステーブルに頬を押し付けたまま土方は思った。
今日、土方がこの三人で呑むことになったのは本当にただの偶然だった。近所のコンビニに入った瞬間坂田に拉致されたのだ。結局土方はコンビニの自動ドアを開けはしたものの、そこをくぐることはできなかった。
「ちょ、おま、なに!」
「はいはーい、いま土方くん捕まえたから予定通り買ってきていーぜ。」
土方の腕を掴んだまま坂田は電話をしていた。いまになって思うとあれは買い出しに出た高杉だったのだろう。坂田が電話を切ってから改めて聞くと、
「ヅラがよ、やっぱいけねえっていきなり言い出すからさ。明日から工事でしばらく染めの工房が使えねえんだと。」
「だからっ、俺はどこ連れてかれんだよっ!」
どうやらヅラってやつの代わりにされたらしいことは分かったが、結局それが鍋だったってことは高杉の家に着くまで分からなかった。
「へえ…、ホントに連れて来たんだなあ、銀時。」
「ああっ、だから言ったろ。ヅラが急に来れねえって言うからさ、その代わり。」
「坂本は?」
「あいつは一昨日から日本に居ねえよ。次はボリビアだって。」
「またかよ。ウユニ塩湖で塩漬けにでもなってくりゃあいいのにな。」
会話に置いて行かれながらも、高杉は土方を拒否するようなことはなく、家に招き入れた。特別歓迎もされていなかったが、どんどん準備は進んでいって、あっという間に鍋ができ上がっていた。二人の手際は何故かものすごくよくて、急に連れてこられたとはいえ、土方は炬燵に入ったままなにも手伝えなかった。二人のなかででき上がっている段取りにも会話にも、口を挟む隙間がなかったのだ。
気が付くと土方は缶ビールを持たされていて、坂田のやるきない「かんぱーい」の一言で鍋は始まっていた。学科混合の新歓コンパで知り合って以来、たまに学内で顔を合わす程度の間柄でしかなかったが、全員学科が違うので思いのほか話は盛り上がった。日本画科の高杉の家には、たくさんの岩絵具や筆、その他にも金箔や銀箔、ロールの和紙、キャンバスになるだろう木の枠などがあり、見慣れないものに囲まれているせいで、土方はすっかりその非日常に呑み込まれていった。坂田とさっき名前の出た坂本は建築科らしいが、坂本はどっちかというと大学生というモラトリアムを最大限に活用しているらしく、単位がぎりぎりになるまで外国に行くという。既に世界の四分の一の国には行っているのだそうだ。そして今日俺が巻き込まれた原因でもあるヅラは、本名は桂で男にしては珍しく染色科らしい。
「え、うちの染色って女だけじゃねえんだ?」
「あー、見たことねえかな。すげえでかいぬいぐるみ。白くてアヒルみたいな顔なんだけど、エリザベスってタイトルで進級展に出てたやつ。」
「え、うそっ、あれつくったのがヅラってやつなのか。男だったのかよ…。」
今年の進級展で一際目立っていた巨大なぬいぐるみの生みの親であることが発覚した。
巻き込まれたとはいえ関西風のだしで炊いた鍋は予想以上に上手かったし、久しぶりのアルコールも身体に染みた。でもそのせいで、一体いつ鍋が終わったのか、土方には記憶がなかった。頭はまだ起こせないままなので視線だけでテーブルの上を探るが、鍋は跡形もなく片付けられていた。こんな酔いつぶれ方をしたのだから、まわりもさぞかしひどいことになったままかと思ったのに、そういえば、すっかりきれいだ。そのためにこんなに低い位置からでも、キッチンの坂田と高杉の絵がはっきり見えるのだ。
(え…………、坂田………?)
坂田が、片付けたのだろうか…。高杉がすぐ隣りでつぶれているのだから、もちろんそうとしか考えられない。けれど坂田が一人でもくもくと後片付けしている状況というのがどうにもぴんと来なかった。片付けなんか、そんなの朝になってからでもいいじゃないか。準備にほとんど参加しなかったから、てっきり片付けは全部土方に押し付けられるものかと思っていたので、この状況はどこかおかしかった。第一、坂田が率先して後片付けなんて………?
もう一度坂田を見る。けれど相変わらず冷蔵庫を見ていた。窓の外はまだ暗くて、朝は近付いてきているはずなのに、いつまでも夜を引きずっているみたいだった。冬の朝は遅く、夜明けは焦らすようにゆっくりやってくる。そろそろぼんやり明るくなりはじめてもいい頃だろうと思ったのだが、まるで時間が止まってしまったかのように外は暗いままで、坂田のまわりは静かだった。冷蔵庫の機会音が響くようにはっきりと聞こえていた。
(おい……………、おい………、さか、た……)
土方は声を出したつもりだった。でも実際は頭の中で話しかけているだけで、音にはなっていなかった。しかし、まだどこか酩酊としている頭ではそれもよく分からず、土方はそのまま呼びかけ続けた。せっかく、楽しく鍋をやって、今は倒れているけど坂田一人じゃない。他に二人も人間が居んだろ。もう片付けるもんもなくなって、やることがなくなったからって、こんな寂しい時間に寂しい顔をするなよ。そんな顔をしていては、この時間から出られない。いつまでも冷蔵庫を見続けたって、止まった時間は動かない。
そうだった。坂田の顔は寂しかったのだ。今は顕著だけれど、コンビニで腕を引っ張られた時から土方はその片鱗に気づいていたのかもしれない。 何があったのかなんて知る由もないけれど、無理矢理にまで坂田を振り切る気にはならなかった。土方の知っている坂田はこんなに危うい輪郭をしていなかったはずだ。もっと横暴で、覇気はないが存在感がある男のはずだった。それなのにまるで陽炎のように揺れて見えた。それは朝方のこんな時間だからかもしれないが、いまとなっては、高杉の絵の中に居る、宇宙人のような生き物の方が、よっぽど確かな存在に見えた。
土方はもう一度声を出そうとした。けれどしっかりしているのは眼くらいのもので、他はまったく言うことを聞かなかった。指先一つろくに動かせなかったくらいだ。脚は完全に高杉に押さえられているし、高杉もさっきからびくとも動かない。坂田の後ろにいる宇宙人は……、いや、そもそも絵だからどうしようもない。
(おい……………、そんな……なんもねえ、みたいな……、顔、すんな、よ……………)
やっぱり音になることのなかった声は、土方の頭の中でぐるぐるとまわりはじめた。見えているのに、見えているだけだということが、こんなにももどかしいなんて知らなかった。 おい……………、おい………、さか、た……。 い……………
「行くなよ。」
急に、その声は響き渡った。静かな時間によく似合う低い声だった。静かさを壊さないままけれど確実に空間を揺るがすような、力のこもった声だった。ばっと坂田の顔が上を向いた。坂田がやっと冷蔵庫を見るのを止めたのだ。そのとき高杉の絵を見ていた土方は宇宙人がとうとう喋りはじめたのだと思った。自分がこんなだから、見かねて代わりに喋ってくれているのだと。あれは宇宙人の恰好をしているけれど、神様なんだ。しかし、がりがりの神様にまで心配されるなんて、坂田も坂田で、なんてやつだろうか。
「お前までボリビアに行っちまったら誰が鍋作んだよ。」
「ボリビアって……、なんでよりによってボリビアなんだよ。辰馬が塩漬けになってたって、行くかよ…。」
「だろ…?だから止めとけって。遠いしな、ここからじゃ地球の真裏だ。」
「あと、標高も高え。」
「日本人なんて一瞬で高山病だ。」
神様はやけに地球の地理に詳しくて、同じく坂田も詳しかった。正直ボリビアがどこにある国なのかも知らない土方は、あっと言う間に会話に置いていかれた。神様の声はよく聞くと高杉の声と似ていた。あ、でもこれが高杉の描いた絵だからそうなのかな。内容は見ず知らずの国のことで、土方は鏡面になる湖があることくらいしか知らないが、とにかくよかった。夜明けを疑うような空気が薄まっていた。朝を絶望に使うのはもったいない。どこかに入っていた身体の力がすうっと抜けていくのを土方は感じた。指先に血が巡っていくのが分かる。身体の内側で燻るようだった痺れもとれてきていた。多分今なら頭も持ち上げられるし、きっと声も出せるだろう。やっと話せる。さて、何を言おう。無駄に心配させた坂田に文句の一つも言ってやりたい。でも、まずは…………
「………………ボリビア、って、どこだよっ」
ようやく声が出せたと思ったら、よりにもよってそんな一言だった。自分でも気づいていなかったけれど、さっきから会話について行けなかったのが予想以上に悔しかったらしい。
「「あ?南米だよ」」
「………………あ?……そう、なんだ。」
いつまにか起きていた高杉と坂田がこちらを向いて当たり前みたいにそう言ったので、土方は何も言い返せなくなった。ちらり神様の方を見たが、神様はすっかり口を閉ざしてしまっていて、やっぱり神様っていうよりは宇宙人みたいに見えた。
急に恥ずかしさに襲われた土方は全員から眼をそらすと、顔を隠すように沈み込んだ。せっかく重い頭を持ち上げたのにすぐさまガラステーブルの上に引き返す羽目になった。その冷たさがだけがどうにか救いだったが、羞恥で熱の上がった頭はさっき以上にぼんやりしていた。それでも薄く眼を開けると、東向きの小窓がうっすら闇色を薄めはじめていた。
(………おせーよ。)
内心ため息をつきながらそう思ったが、時間がもう一度動き出したことを確認して、土方はほっと息を吐いた。