ああ、暑い。今が夏だと錯覚してしまいそうだ。手のひらから伝わってくる温もりは生き物のそれであったし、靴底から這いあがってくる熱気にも随分前から嫌気が差しはじめていた。こめかみに汗の粒が溜まり、それが伝い落ちて耳の穴を濡らす。鞘で地面をこつこつとやると、山崎の眼玉が往なすようにこちらを向いた。すぐ抜けるようにしといてください、とその眼は云っていた。右手は生温かいものに触れたままだった。ざらざらとした生物の感触が今にも手相を歪めてしまいそうに脈打っている。土に沈んだ靴底から、濡れた音が響く。耳の穴に溜まる汗の粒。肌にべっとりとシャツが張りつく感触。熱射病にかかったように頭は正常には動いてくれず、要はさっさとここから飛び出して斬ればいいだけの話。中指の爪が木の皮を削っていく。生き物を削りとっていく。そのとき、微かに耳に入る男達の声が、色を変えた。
沖田の眼が、それを捉えた。四角い箱にぎっしりと埋め尽くされていたのは、色鮮やかな黄色い花だった。地球人が見れば殆どの者が向日葵だと見間違うそれらは、幻覚をみせる危険植物の一種。それは花粉を吸い込むだけで、人間を破滅に至らしめるほどの麻薬。山崎、アレか。小声で問うと、山崎は頷く。間違いないですね。それを聞き、沖田は触れていた木から手を離した。爪で削った痕が、そこには出来ていた。じゃあ行け。え? 振り返ろうとした山崎の背中を思い切り刀柄で突くと、山崎は前のめりになって木々の陰から飛び出していった。敵が一斉に山崎の方を向いた。山崎は、ぎょっとなりながらも沖田を振り返ったりはしなかった。男たちが山崎に意識をとられているうちに沖田は移動し、距離を縮めていった。左側から余計な光が射していた。ずっと。プラスチックフィルムがぎらぎらとした青空を映し込み、何処かで雪の溶ける音がした。視界が、ちかちかとする。ある程度、距離を測って、沖田は足裏の筋肉にありったけの力を籠めた。ひとりの男に狙いを定め、そして、跳んだ。
自分の身に何が起きたのか男は知る由もなく、その場に崩れ落ちていった。沖田は刀を払って、静かに眼をあげた。そして口をあけて見あげてくる男たちにつらつらと法規上の文句を棒読みで述べたあと、まあ要するにだ、と笑みをこぼす。
「斬る」
手前にいた男が銃の引き金を引こうと指を動かす。沖田の刀が空を切った。身体を捻って、銃口から飛び出た弾を避けると、男に向かって切っ先を軽く伸ばす。血飛沫。次々と銃弾が飛んできたので、木々の陰に飛び込んだり移動したりを繰り返しながら、山崎に視線を飛ばす。山崎は目配せして、男たちが沖田に気をとられているうちに黄色い花の入った箱を動かしていた。それでいい、と沖田は体制を構えなおしながら短く息を吐き出した。一気にいく。靴底を土に沈ませ、銃声が一瞬鳴りやんだのを見計らって、木陰から飛び出していった。目にもとまらぬ速さで。ひゅん、という音が空中を飛んだ。複数の男の急所を刀が一瞬で撫でていった。撫ぜるように、斬る。血溜りが土に染み広がり、植物の根を浸した。まるでサウナに何時間も閉じ込められているような気持ち悪さだった。そういう空気が生物のように肌にねっとりと絡みつく。こんなところで生かされているこいつらは、洗脳されているにちがいない。外の季節も知らないで、今を夏だと思い込み、生きてゆけると妄信している。額の汗を拭った手のひらに、べったりと血がついた。斬り損なったひとりの男が、半狂乱のように叫びながら沖田に背を向けて走り出した。沖田は顔をあげる。あ、と唇が動いた。マスクをつけた山崎が、はっとこちらを向いた。山崎が抱える、ヒマワリのはいった箱。半狂乱男は、まっすぐにそれに向かっていた。沖田は土を蹴る。いち、に、さん。一瞬、箱の隙間から花弁が覗いた。きもちのわるい、まっ黄色。
ぽたり、と赤い血が落ちた。細胞が分裂したような痛みだな、と思う。男の刀が沖田の腕に刺さっていた。おい、とざらざらの声が砂煙となって唇から吐き出た。
「コレに手出すんじゃねェ」
ひ、と漏れた男の声を掻き消すように、喉元を裂いた。刺さったままの刀を腕から抜くと、血がぼとぼとと落ちた。沖田さん!と山崎の喧しい声が鼓膜を叩く。そのときだった。視界がぐにゃりと歪む。と思ったら、すぐ戻る。「?」傷口を覗くと、たいした深さはなかった。それでも血がだらだらと垂れ落ちていくので、ザキ、と云いかけた沖田の口は閉じられた。血ではない、地面に落ちていったのは血ではない。ぱ、ぱ、と交互に何かが見えた。黄色、赤、赤、黄色、赤、青、青。手のひらからぼろぼろと、氷が地面にこぼれ落ちていった。地面で弾かれ、それは割れ散った。太陽の熱であっというまに溶けていく塊。顔をあげた。空が見えた。青空。積乱雲。太陽。近藤さん。その横顔が沖田を振り返る。氷の冷たさで麻痺していた腕の傷が再び、ひりひりと痛みを訴えはじめていた。喉がからからに渇いている。音が遠のいた。走っていかないと、置いてかれちまう。駆け出そうとした沖田の腕を誰かが掴んだ。冷たい。見あげると、土方がいた。もっかい冷やしとけ。と土方が云う。氷のような手だった。見られていたと思った。土方の背後で、ぎらぎらと井戸の釣瓶が光を放っている。「プラスチックフィルム」が風で揺れていた。目尻から溢れた潮が、風に流されていく。
沖田さん!山崎の声が鼓膜を叩く。視線をあげると、山崎の手が伸びてきて沖田の唇を塞いだ。鼻の穴まで覆われる。瞬きをして、山崎を見おろす。コレ吸っちゃだめです。山崎が目線でさしたものは、あの黄色い花だった。目を細めてそれを見ると、何かおぞましいオーラを絶えず放っている感じがした。顔をあげる。プラスチックフィルムが光で透けて見えた。あいかわらず夏のように、ここは暑かった。熱を帯びていた。汗があとからあとから噴き出てきた。腕から落ちる血を眺めた。植物たちがそれを吸っていた。ああ、錯覚だ。夏じゃない。今は、夏じゃない。
フィルムをあげて外に出ると、冷たいのが肌を痛いほど刺した。靴底が、雪に沈んだ。鼻から吸い込む空気は、冬のそれに間違いない。振り向くと、血だまりの温室。其処でひっそりと息をする黄色いヒマワリ。山崎が布を裂いて沖田の腕をきつく縛った。すみません、と山崎は目を伏せて沖田の腕に滲む血を見ているようだった。遅れてやってきた他の隊士たちが後処理をやっている間、沖田は突っ立って空を見あげた。遠いなァ。つぶやいた沖田のまぶたに雪片が落ちた。つめたい。安堵する。背後で、山崎が話す声がしていた。「はい、資料で見たやつと同じです、向日葵にそっくりで。……あと副長、沖田隊長が腕をやられました、すみません俺のせいです。それに少しアレを吸ってしまったようで、それであの」長々と丁寧に報告していた山崎の手から携帯電話を奪って、沖田はそのままそれを耳に当てた。あっ隊長、山崎が焦った様子で声をあげた。「で、総悟の様子は?」と、土方の声が耳のなかで篭る。冷静なようで、すこぶる苛ついた土方のその云い方に、うげえとなった。「元気ですよ」沖田が返すと、土方が息を呑んだのがわかった。「もれなく全員斬りましたし、あの麻薬も回収しましたし、俺もぴんぴんしてまさァ。ちょっと吸っちまいましたけど、大丈夫です、土方さんをきもちよく斬る幻覚しか見てません」まったく大丈夫じゃないようだな、と土方の声が返ってきた。山崎が青い顔をして、じっと沖田を見ている。「まあとにかく俺の仕事は終わったんで、あとはよろしく」まだ何か云いかけた土方の言葉を遮って、通話を切った。液晶のうえで雪が溶けて水泡がぽうっと浮かんだ。沖田さん。山崎に腕を掴まれる。黒い瞳が、沖田の眼を覗きこむように間近にあった。
「本当に何も見なかったんですか」
「……ああ」