あの人はわざわざ、この家に帰ってくる。



朝も夜も「ただいま」



(9月某日の話)
日高さんに、あかんやつが来ている。
昨日の、夜までは普通だった。TVのニュースを見ていた。日高さんはスーツを着ていた。白いシャツ、藍のネクタイ、
黒の靴下が恐ろしく似合っていた。いつも通りだ。帰って来たとき「ただいま」と言っていた。きちんとジャケットは
玄関のハンガーにかけていた。むしろ出来すぎているくらいに調子は良さそうだった。だが良すぎる、というのは、異
常の知らせであることに違いはなかった。夜に、夜に「何か」が来てしまったんだろう。俺は日高さんの部屋のドアを
開けることはできない。鍵はかかっていない。だからこそ、信頼を裏切りたくない。結局、あの人は鍵を持っているの
だ。チタンの固まりなんか必要ない。なにが鍵としての役割をなすのか、そういう誰にも教われないことを、あの人は
きちんと知っている。
俺は日高さんの部屋の前で立ち尽くしながら、ドアの木目をじっと見つめた。どうして、何にも気づかなかったんだろ
う。昨日俺は何を見ていたんだっけ。考え事でとっくに飽和した頭をさらに問いつめると、意外にも応えが返ってきた。
「そういえば、肘を見ていたな。」
そういえば、昨日はずっと日高さんの肘を見ていた。骨が突き出て、先の尖った肘を、俺はなぜだかずっと見ていたの
だった。

(観察日記の話)
昔から、観察は好きだった。勉強も運動も、ぴったり中の中だったから、褒められも怒られもしなかったけど、朝顔の
観察日記だけは褒められた記憶がある。別に好きだった訳でもなくて、ただただ暇だったから、無駄にやる気を発揮し
てしまったことがあったのだ。すると毎日鉛筆でかいたスケッチをクラスのある女の子に
「やまわきくん、うまいんだねえ。」
と言われてしまったのだ。俺はまんまと絵が好きになった。その女の子のことも小学校卒業まで、結局ずっと好きだっ
た。告白はできなかった。
絵は好きだと言うだけで、仕事にはならなかった。実はちょっとデッサンを勉強したこともある。あるとき、気まぐれ
に当時つかってたコンテをもちだして、日高さんをかいたことがある。こっそり、クロッキーをした。「写しとる」だ
けならできる。ざりざり、コンテを画用紙に押し付ける。日高さんは気づいているのかいないのか、でも、なにも言わ
れなかった。
いみじくもそのクロッキーは残っていて、今でもなかなか似ていると思う。ただ、あの頃より日高さんは遠い眼をする
ようになった。

(コウモリになりたい話)
日高さんは基本的に人との会話を面倒臭がる。「コウモリのように生きたい」と割とまじめに言うことがある。

(卓上カレンダーの話)
いつか、日高さんは卓上カレンダーのある一日を擦っていたことがあった。羊白紙に親指の腹を押し当てて、かすかに
上下させる。眼は開いていたけど、たぶんどこも見ていない。爪を噛む。これも全く意味はない。でも全く意味を求め
ないことを、求める気持ちはよく分かる気がした。日高さんが擦っていたのはある月の22日だった。一応調べてみたら、
ショートケーキの日だった。日高さんはそんなにショートケーキが好きだっただろうか。そこまで考えて、すこぶるど
うでもよくなったので、考えるのをやめた。

(煙草の話)
日高さんは突然、煙草の本数が眼に見えて減る時がある。長いと一月、最近だと一週間くらい続くことが多い。これは
喜ぶべきなんだろうけど、そういう時は火を着けるのさえ面倒になってしまったときなので、ちょっと痛々しい。胸ポ
ケットのライターに手を伸ばすという動作をまず面倒くさがって、しょうがなく遠くを見つめているような感じだ。
だがずっと雲を見ているせいか、そういうときの日高さんの天気予報はとても当たるので、重宝している。実は、日高
さんと一緒に住んでからは、洗濯物が夕立にやられたことがない。





(9月某日の前日の話) 
でも実を言うと、薄々予感はあった。
日高さんは一昨日の夜、帰ってこなかった。明け方、静かにドアを開けて帰って来た。きつい香水の匂いを引きずって
いて、ちいさく、やっぱり「ただいま」と言っていた。リビングのソファで変な体勢で寝落ちていた俺は、全部に気づ
いていた。眠くて、つらくて、眼の奥の方がじんわりと痛んだ。
「でも、女じゃないな。」
これは直感した。だが男だという確信はなかった。寝て来たことは、明らかだったけれど、日高さんが抱いたのか抱か
れたのかは知らない。そういう事実に、実はさほど興味がない。ましてや嫉妬なんて感情はほど遠い。ただ、そんな奪
われたような顔をして、わざわざこの家に帰ってくるから、そんなこと、してくれなくていいのにとは思っている。あ
の人はなぜか、たとえ朝帰りでも、この家に帰ってくる。帰巣本能のようなものに突き動かされているのだろうか、機
械的な顔をして、必ず「ただいま」を言う。

(9月某日の翌々日の話)
日高さんはなにごともなかったかように部屋から出てきた。それが昨日、そして今日、買い出しにいく俺に珍しくつい
てきた。だがスーパーには入らず、駐車場の車に乗ったままで待っていた。つい、たくさん余計なものを買ってくる俺
を制するために来たのかと思いきや、違ったらしい。俺の買い物はスーパーのビニール袋三つを満杯にさせていた。車
に戻ると、日高さんは下腹部あたりで腕を組んで眼を閉じていた。キリスト教の祈りのポーズをそのまま下に降ろした
ようだった。俺はスーパーの袋を、取り落とした。がちゃん、卵のパックがだめになる音を聞いた。
まずい。
日高さんの肩を掴んだ。しかしなんの反応も返ってこない。眠ってはいないはずだ。そのまま肩を叩いて名前を呼ぶ。
「日高さん、日高さん」
できるだけ、落ち着いた声をだす努力をした。ここで大声を出してはいけないと思った。自分を冷静にするためだった。
ここで冷静な人間が居なくなってしまえば、取り返しのつかないことになる予感があった。そのまま暫く、日高さんの
名前を呼び続けた。
どれくらい、経ったときだろう、日高さんの目蓋がわずかに震えた。俺は日高さんの肘のあたりをぐっと掴んだ。それ
から、気の遠くなるような時間をかけて、日高さんは目蓋を開いた。セミの羽化を見守るような緊張感があった。片時
も眼を離すまいと強く自分に命令した。目蓋を開いてからも日高さんの眼にはしばらく光が戻ってこなかった。視神経
と脳を繋ぐ回路が麻痺しているようだった。日高さんはやっと一回瞬きをして、そこからぱちぱち、眼球を確かめるよ
うに瞬きをくり返した。
「あぁ…、山脇」
かすれた声をかすれたままに出してこちらを向いた。日高さんの眼の中に俺が居るのを確認したとき
「おかえり」
日高さんは言った。
 
俺の後ろを、スーパーの袋から溢れたジャガイモが転がっていくのが同時だった。








2012-9-15