春となかゆび



 生温いあたたかさを感じながら坂田は目を覚ました。雨の音がぱたぱたと窓を鳴らし続けていて、ガラスの向こう側
がいつもより遠く感じた。春の雨は随分長くて、すぐに時間を止めてしまうから苦手だった。頬にあたっているのはい
つもの枕の柔らかさだけれど、どうにも床が固い。身体が固まってしまっている。目を開けると、煌煌と蛍光灯がつい
たままで、眩しすぎる光に顔をしかめる。あー、炬燵で寝ていたんだ。と気がつく。炬燵の温度を弱にしていたおかげ
で身体の不快感は少ないが、腰のラインを汗がつたっていくのをはっきりと感じた。目覚めなのに、けだるくて身体を
動かす気力が湧いてこなかったので、惰性に任せてもう一度目を閉じた。





 次に目を開けると。右手がなくなっていた。胎児のようにまるくなって眠っていたから、両手は顔の前にあるはずな
のに、おかしい。しかも左手はちゃんと目の前、予想通りの位置にあるのに、右手だけがない。どうした。どこにいっ
たんだろう。よりに寄って利き手に逃げられるとは、困ったもんだ。





 身体の右側がいいかげん熱を持ち過ぎていたので、仰向けになるように体勢を変えると、右手はあんがいあっさりと
出てきた。自分の真後ろに回っていて、しかもそこをいつ帰ってきたのか、おなじく炬燵にもぐりこんでいた土方に押
しつぶされていたから、全く感覚がなくなっていただけだった。振り向くと肘のあたりに真っ黒い頭があって、指先を
掴まれていた。見ると服は仕事着のままだ。疲れて帰ってきて、真っ先に俺の右手を乗っ取ったこいつの思考回路は理
解できなかったが、主人に寄り添う犬みたいだと思った。しかも普段、こいつはとんでもない猛犬で、それこそ飢えた
ドーベルマンみたいな眼光をしている。それを思うとえらくかわいい姿に思えた。





 土方も寝ているのかと思っていたのだが、よくよく見ると違っていた。掴まれた指先を静かに撫でられていた。あま
りにもささやかな動きだったけれど、正確には中指の腹を中心としたひび割れの傷を撫でられていた。
 毎年春はどうしようもなく手が荒れた。ひび割れの傷は治っては開くをくり返すので、皮膚はどんどん分厚く腫れて
爛れてくる。その不快さに慣れてしまうほど慢性化しているので自分ではさほど気にしなくなってしまったけれど、端
から見ればかなり痛々しいだろう。実際指を満足に曲げられないので、握り拳が歪な形になるくらい腫れは進行してい
た。けれど土方の傷に触れる指先が奇妙に優しくて、違和感を覚えた。普段のこいつならこの程度のことを気にしたり
はしない。セックスでさえ毎度掴み合いになって拮抗する仲だというのに、傷を労るようなその甘さはどこから来てい
るのか。そんな優しさを向けられる覚えが無かった。





「なあこれ痛くねえーの?」
「……痛えーよ」
「うん、すっげえ痛そう」
「……だったらさわんないで」
「薬は?」
「へ?」
「あの、けっこう臭いやつ、どこ」
「昨日は机の上にあったけど…」
「あった」
「おい」
「薬塗っても治んねえんだな、これ」
「…そういうもんなんだって。もうずっと春はこうなんだよ」
「ましにはなんねえの?」
「夏までには治る」
「治んなきゃいいのにな」
「おま…、どっちだよ。治してえのか、治したくねえのか」
「血の匂いがすんだよ」
「んん?」
「ずっと治んねえ傷だから、ずっと血の匂いがしてる」
「興奮すんのかよ。変態か」
「ああ、だからやろうぜ?」
「………はあ?」





 目覚めると坂田はまだ炬燵のなかに居た。外はとっくに明るくなっていて、日が差していた。でもそんなに強くはな
いから、ほとんど曇り空だろう。そういえば昨日の夕方からずっとこの生温さの中に居るのだ。やっぱり、春の雨は時
間を止めてしまう。ああ、苦手だ。
 まわりを見渡すと、脱ぎ捨てた服が全く片付いていなかった。起き上がると炬燵の下敷きのラグまでもがぐちゃぐち
ゃになっていて、驚くほどげんなりする光景が広がっていた。土方はその気配さえ消えてしまっている。いつ出ていっ
たのか。けれどあの澄ました顔で、また仕事に忙殺されているんだろう。春になってもあいつの仕事は一向に減ること
はなくて、文句も言わない奴だが顔に張り付く疲労感を隠さなくなってきていた。
そんな疲れがとうとう爛れた中指にまで欲情させるようになってしまったのか。だとしたらちょっといたたまれない。
結局昨日は相変わらず掴み合いのセックスになってしまったけれど、土方は最中も中指の傷を撫で続けていた。腕には
掴み掛かるし、肩には噛み付いてくるのに中指にだけは最後まで優しかった。この傷がどんなに良いものなのか、俺に
はよく分からないけど、俺の意思など関わらず、この傷だって夏には治ってしまうのだ。





「この中指が元に戻ってしまったら、次の春まで土方は戻ってこないかもしれない。」
 昼間を結局だらだら過ごしてしまい、夕方になってようやく脱ぎ捨てた服を洗濯機に放り込んでいると、突然そんな
確信が湧いてきた。全く絶望的だった。せっかく起き上がったというのに、洗濯機の前で踞る羽目になった。





「うわっ!…おい、なにしてんだよ」
玄関扉を開けた土方の目に入ってきたのは、洗濯機と向かいあう坂田の姿だった。春は毎年、坂田は呆けていることが
多いけれど、なんでだって洗濯機の前じゃなくてもいいじゃないか。びっくりする。
「…土方?」
「ああ、なんだよ」
こちらに気づいた坂田は、膝を擦らせて這うように近付いてきた。ゲームだったら一番始めに殺されそうなゾンビみた
いな動きで後ずさってしまいそうになったが、惜しくもさっき自分で玄関の鍵は閉めてしまっていた。そのまま坂田に
下半身をホールドされてしまい、身動きを封じられてどうしようかと思ったが、俺より先に坂田が口を開いた。
「なあ、……来年の春、…また来てくれるか?」
「はあ?俺はツバメかよ…。一緒に住んでんだろうが。それともなんだ。お前は俺に来年の春まで出てってほしいのか
よ?」
坂田があまりにとんちんかんなことを言うので、当たり前の疑問を返すと坂田ががばっと顔を上げた。既に涙と鼻水で
ぐしゃぐしゃだったが、その顔を俺の下半身に押し付けたまま泣くのを再開するもんだから、まるで漏らしたみたいに
坂田の涙の痕がズボンに染み付いていた。おいおい勘弁してくれよ。

はあ、まったく、これだから春は苦手だ。







2013-4-21