首を狙ってくれないか
(窓際席の話)
喫茶店の窓際席で紅茶を飲んでいると、突然首の回りがぞわりと震えるのが分かりました。厚い雲に覆われた曇りの日
でした。私は思わずうなじを手で押さえました。悪寒というのが感覚としては一番近いと思いますが、私のそれははっ
きりと性的なものでしたので、知らずとため息が溢れました。手の体温で首を温めているとすぐに落ち着いたので、胸
ポケットに手を伸ばし煙草に火をつけようとしました。ですが、うっかりライターを取り落としました。ライターはソ
ーサーとかち合って喫煙室に派手な音が響きました。たったそれだけのことで、ひどく気が沈んでいくのが分かりまし
た。私はしばらくライターも拾えないままでしたので、喫煙席にも関わらず一本の煙草も吸うことができませんでした。
俯いたまましばらく動けずにいたので、視界に入ったフォークをしばらく見つめ続けました。フォークは四つの山と三
つの谷のよくある形でしたが、なぜか真ん中の谷だけが左右の谷より溝が深くなっていました。そのまま、フォークの
柄のふくらみのことを考えました。銀色の細いかたまりだと思ってみました。まんなかの特異な溝のことを慈しみまし
た。全く同じフォークを絵に描けそうなほど眼に焼きつけたころ、私はようやく席から立ち上がることができました。
(月の話)
「女っていうのは大変なのよ。月に支配されてるんだから。」
それは大学時代につき合った何人目かの彼女の言葉でした。彼女はその言葉を皮切りに満月と月経の関係やら、ホルモ
ンバランスの話やらを延々とはじめました。彼女の独特の考えはたいていおもしろく聞けたのですが、いつでも話が長
過ぎるのが難点でした。なので、途中からは話を流して聞くことが当たり前になっていきました。彼女は相槌さえあれ
ばとりあえず不満はないのか、いつまでもしゃべり続けていました。
「あなたっていつでも同じ顔をしていて羨ましいわ。」
その日も私はルーティンワークのような相槌をうっていましたが、彼女のその言葉に引っかかりました。
「そんなに、いつでも同じ顔をしているかな?」
思わず、相槌をやめ聞き返していました。
「ええ。まあ、あなたに限らず男の人の多くはそう見えるんだけど。女はね、ホルモンバランスが崩れると、何もかも
投げ出したくなっちゃうの。急に心が変わってしまう時があるの。 私なんか昨日と今日で全然違う顔をして、正反対
のことを言っている時もあるの。今は満月みたいにあなたが好きだわ。でも、満月も日が経てば新月になるみたいに、
この気持ちがなくなってしまう日がどうしようもなく来てしまう気がして、それが怖いのよ。」
彼女はいつでも自分のことに必死な人でした。悪く言えば自分のことしか考えていない人でしたが、その潔い真っすぐ
さは私を圧倒させました。彼女の自己観察、自己認識の眼は鋭くて、正しく見るためなら自分を傷つけることさえ厭わ
ないような強さがありました。それは私から見れば羨ましい要素でした。
「男にもヒステリックな奴はいるよ。」
「女ほど頻繁にはいないでしょ?」
彼女の言うことはだいたい正しいので、私は口喧嘩をする気にもなれず、いつでも最後は曖昧に笑っていました。
結局、彼女は自分で予言した通り、新月がやってくるみたいに私から離れていきました。同じように私も正しい彼女に
疲れてきてしまったころで、私たちはとても自然に別れることができました。彼女は見事なまでに別れ際を心得えてい
ました。本当に、最初から全て分かっていたかのような幕切れでしたが、彼女に月がついている限り、幸か不幸か彼女
が間違えることはないのだろうと思いました。
(早歩きの話)
彼女の話と一緒にしてしまうのは失礼かもしれませんが、私に突然湧いた性的欲求は「月が運んできたのだ」と言って
しまうのがいちばんしっくりくる気がしました。抗いようがなく自然にやってきたそれは、私の身体にじくじくと居座
り、逃げ場なく彷徨っているようでした。喫茶店から出た後、すぐに家に向かって歩きはじめたのですが、ざわざわと
別のだめなものが押し寄せてきていることにも感づいていました。よりに寄って、というやつです。きっかけはライタ
ーを落としたときでしょう。あのとき、狭い喫煙席には少し驚くくらいの音が鳴りました。仕方がないとはいえ、一瞬
あの場に居た全員の目線が私に集まっていました。普通に「すみません」と一言言って、苦笑いを浮かべられたらよか
ったのです。ですが、何より私自身がその音に驚いて身を竦ませてしまったのです。落としたライターを拾いもせず硬
直した姿というのは、些か奇妙なものに見えたのでしょう。動かない私を訝しげに思う雰囲気がひしひしと肌に伝わっ
ていくのが分かりました。しかしもう、言い訳をできるタイミングは過ぎていました。目線が私から離れてくれるまで、
私はじっとフォークを見つめながら耐えるしかありませんでした。
こんなことで、と自分でも思いますが、でも本当にこんなことで、私ははっきりと元気をなくし、だめになってしまう
のです。
(…早く帰らなければ)
できる限りそれだけを考えて、足早に家路を急ぎました。
(熱の話)
家に帰るとすぐさまソファに沈み込みました。靴を揃えジャケットを脱ぐところまでが限界で、スーツのままソファか
ら動けなくなりました。頭がぼんやりしていました。ああ、これは、発熱したな、と分かりました。昔から熱には弱く、
知恵熱ですぐに寝込んでしまうため、幼い頃は母に苦労をかけたようです。熱と一緒に、色めいた欲が身体の中から染
み出してくるような感覚がありました。早く楽になってしまいたい。そう思いましたが、私の身体は何もかもを面倒く
さがり、部屋の電気さえ点けられないままでした。
「………………。」
目を閉じて少し上を向いたまま、自分の身体を制御できないまま、浅い眠りに落ちていきました。短い間にとてもたく
さんの夢を見たような気がします。きっとたくさんの場面を移動しました。けれど夢を見ながら、この景色もすぐに忘
れてしまうことを分かってしまっていて、切なさに潰されそうな気がしました。ありとあらゆる色が網膜に焼き付いて
いたのですが、ゆっくり意識が浮上して眼を開けた瞬間、夢が抜け落ちていってしまうのを、はっきりと感じました。
夢を置いて、私だけが現実の世界に戻ってしまうのは、モノクロの写真に一人閉じ込められたような寂しさがありまし
た。けれど、目まぐるしい夢の世界から解放されたことに、心底安心もしました。私は指さえも動かせなくなっていて、
ソファから立ち上がることはできそうにありませんでした。
(面白くない男の話)
「日高さん。」
「…………。」
「日高さん。」
「…………。」
山脇の声で眼が覚めました。
「日高さん。動けそうですか?」
「…………。」
山脇はすっかり私の扱いに手慣れているので、どうしてスーツのままソファで寝ているのかと尋ねるようなことはしま
せん。まったく野暮だと分かっているからです。
「日高さーん。お風呂湧いてます。」
「…………。」
「ご飯は、この時間だから食べないと思って用意してません。すみません。」
「…………。」
まったく謝る気のないすみませんを聞くのは何度目でしょうか。しかし私もわざわざそれを口に出して指摘することは
ありません。これまたまったく意味がないからです。
返事をしない私に構わず山脇はソファの下に座ったまま世間話を始めました。帰りに雨に降られて明日履ける靴がない
だとか。でも今日の夜中に雪になるから、どの道長靴がないからだめだとか。スーパーでどうしても食べたくてグラノ
ーラを買ってしまったとか(また3袋くらい買ってしまっているのでしょう)。本当に大学時代からそうですが、この
男の話は面白くありません。私はそもそも理知的な人がタイプですので、実の無い話はあまり好みません。けれど、私
が自分のなにもできない時間をもどかしく思っている間、そのどうでもいい話が私の救いになることを、この男は知っ
ていました。山脇は下らない話で時間を繋ぎながら私が動けるようになるのを待っているのでした。山脇に居候を許し
た時、私は自分の不都合な部分を伝えてはいましたが、決して私の世話を頼んだ訳ではありません。だから、まさかこ
んな男だとは思っていませんでした。どうしてこんなに、ひたすらに、他人を待つことができるのでしょう。
「私は忠犬を飼いたかったわけじゃないんだよ。」
以前山脇に皮肉も込めてそう言ったことがあるのですが
「日高さんがどうしようもなく駄目になるみたいに、俺の忠犬体質も、どうしようもないです。諦めて下さい。」
忠犬にしては偉そうな科白が返ってきました。
(首を触ってもらう話)
「スーパーで清水に会ったんですよ。ほら、覚えてます?俺と同期で、冬はほとんどスノボしかしてないあいつです。
本気すぎて彼女と行っても放ったらかしにするから、雪山行くたび別れて帰ってくる。あいつにとってはデートが口実
で、スノボが目的なんですよ。その清水にばったり会って話してたんですけど、俺の立ってたとこから、ちょうどグラ
ノーラの山がずっと見えてて。なんでですかね。そんなに好きでもないのに見てるとすげえ食いたくなっちゃって…。」
「山脇。」
「はい。」
私が急に話を切ったことに驚きもせず、山脇の返事は優秀でした。
「首を触ってください。」
「…………はい?」
さすがに予想外の科白だったのか、少し遅れて返事が来ました。ですがその顔に否定的な色はなく、次の言葉を素直に
待つ様子がどうにも忠犬でした。なのでお願いではなく、命令をすることにしました。その方が事が上手く運ぶような
気がしたからです。
「指示はしますから私の言う通りに。」
「はい。」
「まず、手が冷たいなら温めてください。」
「体温高めなんで問題ないと思います。」
「爪は伸びてませんか?」
「いつでも深爪ですよ。」
「では、私の首の後ろを、触ってください。手のひらを押し付けるようにして。」
「…こうですか?」
「そうです。しばらく、そのままで。」
「はい。」
山脇の従順さは機会じみていて不思議なところがありました。けれど首を触ってくれという突飛な要求にここまで素早
く対応されると、感心するしかありません。他人の言う事にそんなに素直でこの男は大丈夫なんだろうか。余計な心配
さえ湧きましたが、私も他人の心配をしている余裕はありません。色めいた欲求がじくりと身体を刺して、反応をはじ
めていました。
「そのまま、手のひらで擦ってください。」
「はい。こうですか?」
「そう。耳の後ろと、後頭部も。」
「はい。」
「背骨のまわりを、指で、押してください。」
「はい。」
「今の流れをもう一度。」
「はい。」
「次は、きみのできる限り、いやらしい手つきでお願いします。」
山脇の手がぴくっと痙攣したように止まりました。そのまま、しばらく逡巡していましたがおそるおそる返事が返って
きました。
「…………まじすか?」
「まじです。」
山脇は手を止め、何かを喋ろうとしていましたがしばらく口ごもったままでした。あー、だのうー、だの言葉を濁して
いましたが、意を決したように、しかし自信なさげに話しはじめました。
「…………俺、日高さんほど経験ないもので…。」
「知っています。童貞なのは。」
「いやっ!だっから、それは違いますからね!」
「でも、関係ないんですよ。」
「へ?」
「きみの精一杯なら、私は充分感じますから。」
「…………。」
私は山脇が口ごもった時間を一蹴しました。優柔不断な態度を待っていられないほど、神経がすり減っていました。私
はずっと俯いたままでしたが、山脇が顔を真っ赤にしていることくらいは分かりました。垂れ気味の眼をを大きく開い
て薄く口を開けた表情が、見なくても分かりました。しばらく沈黙した後、深く息を吸って、吐いて、山脇が言いまし
た。
「…うまくないですからね。」
「ええ。」
「はあ…。いきますよ。」
「はい。」
(首を狙ってもらう話)
緊張したのか、山脇の手は汗ばんでいましたが、手つきはどこまでも優しいものでした。経験が少ないと言う割には、
力加減はよくコントロールされていました。触れ方が優しいというのは、触れ方が弱いことではありません。力の足り
ないマッサージがもどかしいように、身体に快感を与えるにはそれなりの力が必要なのです。山脇は私の反応をよく見
ていました。昔、絵を勉強していたというこの男の観察眼は確かなのでしょう。なので、耳の裏より中が弱い事にもす
ぐに気づかれました。山脇はあまり自分から事を起こしたりはせず、流れに流されていくタイプなので目立ちませんが、
いざ一生懸命にさせると、なかなか誠実な男でした。
「あ…、いいですね。…上手いじゃ、ないですか。」
「………日高さんが、感じやすいんでしょ。」
「そんなに照れないでください。恰好悪いですよ。」
「て…!照れないで、やるとか。そんな、無理ですよ。俺には…。」
「山脇。」
「…はい。」
「少し黙ってください。」
「う…………。」
「…………。」
「…………。」
それから、どれくらい時間が経ったでしょう。そんなに長くはなかったと思いますが、夢と現の世界を行き来している
ように、再び私の意識はおぼつかなくなっていました。舌もうまく動かせません。身体がどんどん熱くなるのを感じて
いました。今日は本当に、この身体は頭と別の生き物になっているようです。
たぷん。
また、すぐに忘れてしまう夢を見ていました。おそらく、私は水の中にいました。水というには生温くて湯にしては冷
めすぎている、不思議な温度の中にいました。息苦しくて早く水面に出たいのに、夢の中でも私の身体は言う事を聞き
ません。ふと、辺りが暗くなりました。なんとか顔をあげると、なにか大きな物の影に入ってしまっているようでした。
しかし、この物体が岩なのか船なのかそれとも違うものなのか、判断はできませんでした。大きなものはもどかしいほ
どゆっくりと移動していました。雲を眺めるようにその流れを追っていると、表面にうすくきらきらと光るものが見え
ました。
(うろ、こ…?)
おぼろげに大きな半円型の連なりが見えてきました。どうやら魚の鱗のようです。それは薄暗い水の中でわずかな光を
反射していました。琥珀色の鱗は不揃いで光の点は複雑に散らばっており、半月型の鱗はまるい輪郭の縁を、細く細く
光らせていました。それは細かく瞬き続け、まるで星座が空ごと流れているようでした。
(ながれぼし、だ…。)
生温い温度に溶けそうな星をぼんやりと見ていました。手を伸ばすと滑らかな鱗が指にあたりました。爪で鱗を引っ掛
けないように、そうっと手のひらをあてると、魚は生温い温度を持った、湿った生き物の感触がしました。
(そうだ…。ねがいごとを、しないと。)
巨大な魚のぬるい温度に呑まれながら、眼を閉じました。息が苦しいことも忘れていました。どうか夢から覚める前に、
せっかく流れ星があるのです。なにかひとつくらい願っておきたい気分になりました。どうせすぐに思い出せなくなる
夢です。だから、できるだけ本当のことを願おうと思いました。
(ねがいごと…?どうしよう。でもそうだな…。だれか、わたしの……………)
「……くびを、ねらっ、て…くれ、ないか。」
「……………………え?」
「…………。」
「…………。」
「あ、ふぁ。」
「日高さん?」
「…うぅ、は。」
「大丈夫ですか?」
「…やめ、るな。」
「…え?」
「く、びの、つけね。」
「はい。」
「つよく。」
「はい。」
「もっと。」
「はい。」
「したも、さわっ、て。」
「…いいんですか?」
「はや、く。 もっ……ふぁっ!」
躊躇うように私に確認をとったくせに、山脇の手には迷いがありませんでした。うまく喋れない状態だったので、まっ
たく言葉足らずだったはずなのに、山脇には何故かきちんと通じていました。服の上からでしたが、 変な声が出たか
もしれません。 私をよくするためだけにその手は動いて、頼もしささえ感じました。
「あ、もう…。」
「日高さん。」
「ん…うぅ…。」
「いけそうですか?」
「もう、すぐ…。」
「はい。」
「…んあ!」
従順な返事をしていた山脇に、一瞬だけ、首を絞められました。それは命令外のことでしたが、見事に正解でした。私
のために動く優しい手が、私のために首を絞めていることに倒錯しました。
「はっ……い…あっ!……んぅ…。」
長く私の中でくすぶっていた快感が、ようやく身体を通り抜けていきました。私は山脇の手で達して。首を触られただ
けで白昼夢を見ました。達してからも顔を上げる事はできず、山脇がどんな顔をしているのかは分かりません。けれど、
言い訳をする元気もどこにもありません。山脇の片手はまだ私の首に触れたままでした。私と同じくらい彼の手も湿っ
た熱を持っていました。どうか、そのまま、もう少しだけ。その手で私の首を狙っていてほしいと願いながら、私の意
識は落ちていきました。
(グラノーラの話)
眼が覚めると眼の前は大量のグラノーラでした。ざらざらと音を立てながら大きな皿に盛られていきます。ちょっとや
り過ぎじゃないかと思うくらいに盛ったところで、牛乳の香りがしました。朝の光の中に透明なコップが佇んで、牛乳
がなみなみと注がれていきます。その光景は健全すぎるくらい真っ当で、どうにも自分の部屋ではない気がしました。
(…誰がこんなに食べるんだ?)
ソファに転がったままぼんやり考えていると、山脇がこちらに気づきました。
「日高さん。おはようございます。」
「…………。」
「日高さんもグラノーラ食べます?」
「…………。」
「グラノーラってあたりはずれ激しいんですけど、これは美味かったですよ。」
言いながら山脇はコップの牛乳を皿に注ぎ、スプーンでグラノーラを掬っていました。大きな口で思いきり食べる姿が、
なんとも幸せそうです。しかも口ぶりからすると、これはもう二杯目なのでしょう。同じものを気に入って、大量に食
う。本当に犬みたいな奴だと思いました。それにしても…
(カレーライスみたいに食べるんだな…。)
呆れるくらいの食べっぷりをしばらく眺めていると、食欲がうつったのか、だんだんお腹が空いてきました。匂いにつ
られてゆっくり身体を起こすと、私の身体には毛布がかけられていました。着ていたスーツも脱がされて部屋着にして
いる綿のシャツとパンツになっています。まさかと思って、少しだけパンツの縁を引っ張ってみると下着も昨日のもの
とは違います。
(しまった。これは…。)
山脇が、やってくれたのでしょう。ですが私と山脇の関係は、あくまで部屋の主と居候です。私は犬を飼いたかったわ
けでも、世話人を望んだわけでもありません。ただ不運にも、家をなくした男の話をたまたま聞いて、たまたま私の部
屋が少し広かっただけなのです。全てはタイミングで、偶然なのです。
「ひらかさん。」
なにを話せばいいものか、私が迷っていたとき、グラノーラを口に含んだままの山脇が私を呼びました。なのでつい…
「…食べ終わってから話しなさい。」
母親のような科白が出てしまいました。
「んふっ!そうですよ。ひらかさん。ひらかさんはそれでいいんです。」
「だから口になにか入ってる状態で喋るのは汚いって…!」
「っんく!」
「ああ、ほら!」
山脇はレーズンでも喉に詰まったのか、しばらくげほげほ咳き込んでいました。グラノーラで咳き込むなんてせっかく
の穏やかな朝が台無しです。一気に空気は慌ただしくなり、私はソファをおりて背中をさすってやりました。山脇はす
ぐに落ち着いて、ゆっくり顔を上げました。
「…日高さん。怒らないでくださいね。」
「なんですか?」
「昨日言わなかったんですけど、どうしても食いたくて、しかも安くなってて……。だからグラノーラ3袋買っちゃいま
した。」
「いや、それはむしろ予想通りですけど…。」
「日高さん。俺とグラノーラ食べてください。」
「………え?」
「それが俺からのお願いです。これで対等でしょ?」
「山脇、それは…。」
「日高さんが誰かに首を触ってほしかったみたいに、俺も誰かとグラノーラ食いたいんですよ。」
「…いっそいやらしいことの方が私は得意なんですけど…。」
「だめです!俺は性欲より食欲なんで!それにあんまり二人揃って飯食わないし。たまにはいいじゃないですが。」
「まず、私は朝食を食べませんしね。」
「ほら、だからはやく。」
そういいながら山脇は大きな皿に私の分のグラノーラを盛っていきます。
「…私もその量なんですか?」
「日高さん。食べないと大きくなれませんよ?」
「きみより3cm大きいですけど?」
「それは俺が小さいんであって、日高さんが大きいわけじゃないです。」
山脇はコップに牛乳を注ぎながらそんなことを言いましたが、山脇の173cmも決して小さくはないと思います。脈絡の
ない会話にぼうっとしてきたとき、どんっと目の前にグラノーラの皿が置かれました。どうやら私も山脇と同じく、カ
レー皿にカレースプーンで食べることを要求されているようでした。
「…………まじですか?」
「まじです!」
「はあ……なるほど。これで対等になるわけですね。」
「はい!…ちなみに牛乳も2L買っちゃったんで、なんにも心配はいりません。」
「きみのその買い置き癖がずっとまえから心配ですよ。」
「じゃあ、手を合わせて。」
「はい。」
「「いただきます。」」
これ以上の会話を続けることにも疲れていたので、私は用意された大きなスプーンを手に取りました。せっかくなので
山脇を真似て、大口でグラノーラを口に運んでいきます。山脇ほどがつがつと景気よくはいきませんでしたが、しっか
りと顎を動かしものを噛んでいく健康な感覚に、たまにはいいかと思いました。
私は長らく不眠症を患っているため、どちらかというと夜の空気の方が落ち着きます。一日のはじまりである朝はたい
てい憂鬱でした。朝の光は気持ちをせき立て、何か活動しなければいけない気にさせます。その焦りに消耗していくの
が嫌いでした。返って夜は一日の終わりです。何もせずともただ終わっていく夜の空気が私は好きでした。なにもしな
い自分を許せる気がしたからです。ゆっくりと死んでいくような感覚を、夜なら受け入れられたからです。
ですからこんな朝は、私には似合わない健全さでした。けれど山脇がいるから、なぜだかこんなに朝早くから、大量の
グラノーラを食べています。なぜだか急におかしくなって、俯きがちに笑っていると、山脇が驚いた顔でこちらを見て
きました。
でも、誰かと住むということはこういうことなのかもしれません。
2014-3-4