俺の兄貴はある日突然アメリカ人になった。
ポジティビティー
俺には三つ年の離れた兄貴がいた。剣道が上手くて、勉強ができて、背が高くて、顔はまあこれといって特徴は無いん
だけど、丸みの強い目と下がり気味の眉は愛嬌があって、女子にもモテてたし、柔らかい雰囲気から特に周りの大人に
は受けが良かった。だいたいのことは無難にこなせる器用さも手伝って、小中学校の頃はよく学級委員とかもやってた
し、まあいろいろ総合して、幼い頃の俺にとっては、わりかし自慢の兄貴だったわけだ。兄貴は中一のときに、弟の俺
が言うのも悲しいくらいベタにビートルズにハマって以来、無類の洋楽好きになった。当時のお小遣いのほとんどはCD
に変わっていったし、昼飯を削ってはコツコツ貯金して、多少やつれながらも、ついにはモーリスのアコースッティッ
クギターまで買ってきた。いつもはやさしい兄貴も、幾度とない空腹と引き換えにしたこのギターはよほど大事だった
らしく、俺が何度ねだっても簡単には触らせてはくれなかった。それでもはじめて身近にやってきたギターに俺も随分
興奮していて、部屋掃除するから!とか、バイト代わるから!とか、秘蔵のエロDVD二枚で!とか、当時の俺に出来る
ほとんど全ての取引を持ちかけて、兄貴が触っていないときだけという条件でなんとかギターにありついていた。でも
俺があまりにもしつこかったからか、兄貴も早々に折れてくれて結局は二人で代わる代わるに、まずはレット・イット
・ビーからはじまって、アルペジオでアクロス・ザ・ユニバースが弾けないかとか、FってどうやんだよFって!とかわ
いわい言いながら、モーリスを囲んでいた。
そんな兄貴だったから、おい、これ聞いてみろ!はいつしか兄貴の口癖になっていた。あの時は、そう、確か梅雨に入
る直前のまだ過ごしやすい春ごろだったな。いつものように兄貴は俺にCDを見せつけてきた。
「なに、もうラウド系は勘弁してほしいんだけど。」
兄貴はその頃フォークソング、R&Bなどなどを経て、何故かハードコアやパンク、ラウド、といったきつい低音のもの
が気に入っていて、その一つ前についにノイズを聞かされていた俺は、老後のためにもそろそろ耳を労りたいきぶんだ
ったから、辟易とした態度をありのままに表現してみた。
「いや、これは違うから。全然ウーハー重視じゃないから!」
兄貴はいつも俺にCDを薦める時だけテンションがおかしくて、話が通じないのが常だったから、気にはしなかったけれ
ど、やっぱり一切の拒否権はないのかと、俺は表面のプラスチックに直接赤いラインを引いたようなジャケットを手に
していた。けれど俺は兄貴のセンスは嫌いじゃなかったから、自室に入るとすぐにCDプレイヤーを起動させた。
「あれ?」
流れだした音楽に驚いたのは今でもよく覚えている。だって俺はてっきり、またわけの解らない叫び声なんかが聞こえ
てくるだろうと身構えていたのに、流れてきたのは、はっきりとしたリズムのある曲だったからだ。ゆるいロックみた
いな、なんとなくあのモーリスを思い出させるような、そんな雰囲気をまとっていたからである。
「兄貴これさ…」
数回聞いてから俺は、兄貴にどうして突然趣味が変わったのか聞いてみようとした。だが
「よかったか?!」
「あ、うん、よかったよ…」
「だろう!いいだろう!」
兄貴の興奮は全然納まっておらず、俺の肯定とCDケースを受け取ると即座に踵を返して自室に入り、そこでまたその曲
を聞き始めてしまった。
(せめて兄貴がアメリカ人になるとこまでいけっていうね)