朝早い時間だった。瞳が二号棟屋上のドアを開けると、意外にも先客がいた。いつもの瞳の場所であるタンクに乗り上
げて空を仰いでいたのは啓だった。朝の屋上で啓に会うのははじめてだったので、瞳は内心とても驚いていた。この屋
上で出会ってから、よく話すようにはなったけれど、それはいつも昼休みや放課後だった。まさかこんな朝に出くわす
とは思っていなかったのだ。
「…こんな朝早くにいるなんて、びっくりした。」
瞳は中南海に火を着けながら啓に近付いた。
「阿部こそ。早いんだね。」
タンクの上から啓が言った。その振り向いた顔に朝の光が反射して、すっと通った鼻筋がいつもよりずっときれいに見
えて、瞳はうっかり見とれてしまった。あれ…?啓ってこんな顔してたっけ?
「いつもじゃないよ。でも今日は、まあ気分だったのかな。今日はピースはないの?」
啓の手にいつものピースが見当たらないから、瞳は何気なく啓に尋ねた。
「やめたの。」
「えっ?」
「ピースは、やめたの。あれは私の煙草じゃないんだ。お父さんのなんだ。だから、やめたの。自分でピース、買える
ようにようになるまでは。」
その答えは、瞳にとって衝撃だった。啓が煙草をやめたことはもちろん、その理由がとても真っ当なのが意外だった。
世の中のことをどこか覚めた目で見ていて、どこも見てないような視線をする啓が、力のこもった眼差しでそう言うの
がなにより意外だった。朝によく似合う顔だと思った。
「そう…なんだ…。おかしいけど、なんかちょっとさみしいね。」
瞳はそう言いながら、父親の中南海を握りしめた。私は、まだ、これを手放せないよ…。塩田…、いつの間にそんなに強
くなったんだろう。瞳は煙草を吸う振りをして少し俯いた。自分があまり、よくない顔をしてる自覚があったからだ。
どうしよう…。急に不安の塊が瞳に押し寄せてきた。
(啓はもう、屋上に来ないかもしれない…。)
それがどうしようもなく寂しく思えてしょうがなかった。屋上に来る理由として二人を結びつけていたのは煙草だった。
ピースなんて、上品な煙草吸ってるんだな。啓がピースを持って現れたとき、瞳は啓の品の良さを羨ましく思った。互
いに父親の煙草を盗んでいるのは変わらないのに、持ってるのが中南海とピースなんて、違いすぎる。中南海なんて煙
草誰も知らないし、パッケージがいかにも親父臭いのが恰好悪かった。けれど、ピースの上品さが啓によく似合うこと
に気づいてからは、驚くほど嫉妬は少なくなった。担任の寸劇に気づいていたり、好きな人がいるか聞いたとき、躊躇
いながらも自分の気持ちを素直に伝えてくれる姿がまた、ピースの繊細さによく合っていたのだ。
そのピースを啓がやめると言う。もうあのきれいな指に挟まる煙草を見られないのか…。啓が煙草を吸う仕草は、寂し
いのにどこか凛としていて好きだったのに。仕方ないけど名残惜しくて、瞳はゆっくり煙を吐いた。
「もう、不良少女はおしまいにするの?」
「別に、不良少女だったつもりはないけど…。」
「普通の女子高生はピースなんて吸わないよ。」
「昨日瞳を見て、やめようと思った。」
(は…?)
瞳は啓に何を言われているのか分からなかった。昨日は啓に会っていないし、だいたい私は学校を病欠してることにな
ってるはずだし。
「茶色い大きな窓のある喫茶店にいたでしょ?テラスのところに、夕方くらい。男の人と一緒だった。」
「……………。」
まさか、啓に見られているとは思っていなかった。瞳は気まずくて俯いた顔をあげられなかった。確かに病欠っていう
のは嘘だったけれど、でも、あれはやましいものでもなんでもない。むしろ…
「あの人が、前に言ってた「気になる人」なんでしょ?駅のホームからだから遠かったけど、すごく優しい雰囲気だっ
たよ。穏やかでさ。私ね、学校を休んでまで会いたいくらいに好きな人がいないから、だから、阿部をすごいと思った
よ…。でさ、そんな阿部見てたらさ、お父さんの煙草盗んでる自分がちっぽけに思えて。だから、ピースはもうやめる
んだ。」
「………めてよ。」
「え、なに?なんか言った?」
「なんでもない!」
瞳が急に声を荒げたので、啓は驚いて身を引いた。そんな啓を気遣うこともできずに瞳は膝を寄せると、膝小僧に顔を
埋めた。そうでもしないと余計なことを口走ってしまいそうだった。
(ちがう、ちがうんだよ…。そうじゃないんだ。)
膝に顔が張りついてしまったように、瞳は顔を上げられなかった。啓の何かを覚悟したような強い目をとても見れそう
になかった。
昨日瞳が学校を休んで、男と会っていたのは本当だ。でもあれは決して前に言った「気になる人」なんかではない。あ
れは瞳の新しい父親だった。瞳が中南海を盗んでいる実の父親は、数年前に母と離婚していた。瞳は父親の方に引き取
られたので母とは離れて暮らすことになった。その母が近々再婚するというのだ。離婚をすれば夫婦の縁は切れるけれ
ど、親子の縁はそう簡単には切れない。血を分けるっていうのは想像以上に壮大なことらしい。母の再婚相手に会いに
いくのはとても気が重かった。しかも向こうの都合で瞳の方が学校を休んで予定を合わせる羽目になった。高校生を甘
く見られて憤慨したけど、なんとか瞳と仲良くなろうと必死になる母の再婚相手を見ていると、怒りのぶつけどころは
なくなってしまった。再婚相手は予想以上に若い人で高校生の瞳にものすごく気を遣ってくるのが途中から可哀想にな
ってきて、なんとか穏やかに話続けられるように瞳も頑張っていた。母も最初は一緒にいたのだが仕事の都合で先に外
してしまい、啓は丁度二人きりになった瞳と再婚相手を見たのだろう。
「阿部?大丈夫?」
「大丈夫!」
瞳は顔を上げられないまま、啓に答えた。顔を隠していた手に力を込め、腕に爪を食い込ませた。啓は遠くから見たか
ら、二人のことを穏やかだと思ったのだろう。互いに本音を言えないまま、腹の内を隠しながら喋っていたなんて思い
もしないだろう。昨日のことを思い出すと余計に、瞳は啓の顔を見られなかった。自分の気持ちを正直に言える啓が眩
しすぎて、そっちを見たくなかった。
(すごいのはさ…啓の方だよ。)
どうしてそんなに自分の気持ちに正直になれるんだろう。自分の気持ちってさ、奥の奥を探っていけば、すごく汚いの
もあるんだよ。でも、自分でもびっくりするくらいの醜い奴に私は会いたくない。昨日だって私はママの再婚相手に本
当は怒ってみせたかったけど、できなかったし。ママもこんな数年で再婚するなんて切り替えが早すぎるし、私はまだ
そんなに整理ついてないよ。でも二人とも幸せそうだからいいかなって…。自分の意見言うの諦めちゃったし。
朝日を浴びる啓の傍で、瞳の影がどんどん濃くなっていくようで、瞳は身体を抱きしめてさらに小さくなったが、意を
決して顔を上げた。啓に呆れられちゃいけない。これ以上啓に置いていかれたくない。
「ねえ、塩田!」
「え!なに?」
「その………阿部っていう呼び方やめてよ。いい加減、他人行儀すぎる。」
「え……。じゃあ、なんて呼んだらいいの?…瞳?」
「そう!瞳!私も、……啓って呼んでいい?」
「うん?…いいよ。もちろん。」
瞳が掠れそうな声を出せたのはここまでだった。
学校休んでまで会いたい人なんか、私にもいないよ。
だって気になる人は、啓なんだから、学校休んじゃ会えないんだもん。
瞳が一番言いたかったことが、言葉になることはなかった。瞳は自分の本音に蓋をすることが得意だったし、実際、昨
日もそうして乗り切ったのだ。本音を言わない方がうまくまとまることが多い。これは瞳の経験則だった。けれど、今
まで言わずに済んできたのも、それが他人事だったからなのだ。いざ自分のこととなるとこの様だなんて。自分の気持
ちを言えないことがこんなに苦しいなんて、瞳は知らなかった。でも、啓に涙を見せる訳にはいかなかったから
「よろしく!啓!」
「いまさら?!……でも、まあ、よろしく瞳。」
瞳は真実を全部隠して啓と握手をした。突然の意味不明の握手を不思議に思いながらも啓は拒まなかった。
握った手はどちらも、やわらかくて、線が細くて、少し熱い。女子高生の手だった。
2013-9-21