夏の終わりに、珊瑚の死骸を四つもらった。



砂山ビーチ、にて



八月の最後の日、珍しく砂山ビーチには人が居なかった。日本の中では南国と呼ばれ、十数年前から有名な観光地とな
ったこの小さな島は、夏の間だけ、観光客で溢れかえる。溢れかえると言っても昔居た都会の街よりは全然少ない。
だが、この島にとっては溢れかえると言えるほど人口が多くなる。だからどんなに小さなビーチにも、人っ子一人居な
いなんてところはほとんど見たことがなくて、つい、なにか不気味なものを見るような眼で、その光景に魅入った。西
からは怪しい色の雲が近付いていた。

正確に言うと、砂山ビーチには誰も居なかった訳ではなかった。パラソルやボード貸しをしているおやじが居た。サン
グラスに無精髭を生やしたこの人は長谷川さんといって、それ以外はなにも教えてくれない。というよりは、話す度に
経歴がころころ変わるのだ、このおっさん。本島で警察官だったこともあれば、ショットバーを経営していたり、タク
シーの運転手だったり、水中専門のカメラマンの時もあった。たぶん、酒が入っていない時にまともにしゃべったこと
がないせいだろうけど、どの職業の時も、奥さんに逃げられた話だけは事細な描写で始めるので、それだけは揺るがな
い事実なんだろうと思っている。話は面倒くさいが、なんだかんだここに来た時はタダ同然で貸してもらっているので、
一回くらいまじめに話し相手してやんねえとなあ、とは頭の端で考えている。その長谷川さんも、あまりに人が来ない
ことに疲れたのか、いつもの白い椅子で豪快に寝ていた。暇でも仕事には割かしまじめな人なのに、近くの灰皿はとっく
の前からいっぱいになっていて、潮風で半分濡れていた。

砂山ビーチには、なにもなかった。だいたいこの島には、実はなんにもない。そのなんにもなさに憧れて、ここには人
が集まる。二年前の俺もその一人だった。大量の白い砂を踏みしめ、海に入る。足首まで入って、眼を閉じる。「潮騒」
はこの島に来てからはじめて知ったことの一つだ。文字も読み方も知っていたが、「騒がしい潮」を聞いたのは、この
歳になってからだ。眼をつむると、自分が一体どこに立っているのか、わからなくなる。潮騒に前後左右を掻き消され
てしまうのだ。しばらくそこに立ってみた。だんだんと波が、足首から脛あたりにまで上がってきていた。潮が満ちて
きたのだ。それは分かったのだが、そこから動くことは、できなくなっていた。

とうとう波は、膝まで達した。あぁ、これは、まずいな、そう思いはじめていた。ここへ来た時はじめに感じた不気味
さはこれだったのか。そう思ったが、頭の中は恐ろしく静かになってしまっていた。思考が放棄されようとしていた。
ここから先は、俺の知らないところで何かが起こるんだろう。もし、次に眼が覚めたら、それを幸運だと喜ぼう。

そこまで勝手に決めたとき、かちり、音が鳴った。

はっ、と目蓋が開いた。潮騒しか聞こえなかった耳に違う音が混じっていた。

かち、かちゃり、か、ち、かちっ、かちり。

本当に微かな音でそう聞こえた。勢いよく振り返った。誰も居なかった。でも、音はまだ続いている。俺は海に背を向
けて砂浜に向かった。砂山ビーチは岩が多く少し入り組んでいる。かちっ、音のする方を目指して進んだ。数メートル
進んだとき、岩の陰に男が居ることに気がついた。男は左手になにかを握っていた。男の数歩後ろで、しばらく男を見
つめた。こいつは何者なのか。はじめはサーファーを想像した。砂山ビーチはここらの中では波が高いところだから、
上級のサーファーたちには人気のスポットなのだ。入り口は一つしかなく幅も狭いから、案外死角は多い。俺には見え
ない位置に居ただけで、ずっと波と闘っていたのかもしれない。そう思った。しかし、男の近くには肝心のボードがな
かった。それに、 今、男が居る場所は、俺が波打ち際に来るまでの間には見えているはずの位置だった。かちり、ま
たあの音が聞こえた。

音はやはり、男の手の中から鳴っている。男の手の中までを覗くことはできないが、投げやりな仕草が、車の鍵を玩ぶ
様に似ていると思った。かちゃりという音も鍵に似ている。だが、鍵よりはいくらか軽い音が鳴っていた。重たいもの
ではないのだろう。いつか映画で見た、クルミを二つ手の中で擦り合わせるマフィアのことを思い出した。だが目の前
の男は、黒いスーツも、ネクタイも、サングラスからもほど遠かった。
「それ…」
つい声が出ていた。

男は慌てるでもなく、ゆっくりと振り返った。男がこちらに向くまでの緊張感で、寿命が何日か縮んだ気がした。男は
海から上がったすぐなのだろう、前髪が顔に張り付いていて左眼が見えなかった。見えた右眼が鋭く蛇のようにこちら
を見たのでどきりとしたが、怖いと思わせる種類のものではなかった。
「なんだ、おまえ」
「いや、そ、の、手のなに」
「ん、これか」
男はぶっきらぼうな受け応えだったが、手の中のものを見せてくれた。それは珊瑚の死骸だった。

砂浜には生き物の死骸が集まる。というより、生き物の亡骸でできあがるのが砂浜だ。さらに言うとこの島は、珊瑚礁
の隆起によってうまれた島で、つまり陸地を掘ったとしても珊瑚が出てくるくらい、珍しくない。男が手を握るたび、
渇いた珊瑚がまた高い音を立てた。

その時急に、男の口角がいたずらっ子のように歪んだのを見た。なにかを企むような顔だ。そう思う間もなく、気づい
た時には男の左手が高くあげられていた。
「あ」
という間に、珊瑚は空中に放り投げられていた。なんとか手を伸ばして珊瑚を掴んだ。なんでそうしたのかは分からな
い。後ろに数歩下がって、狙いを定めた。それにも関わらず結局体勢を崩して尻餅をついたが、右手に三つ、左手に一
つ、すかすかの骨のような珊瑚をなんとか掴んだ。手を顔の前に持ってきて、ゆっくり、ひらく。やはりなんでもない、
どこにでも落ちてる珊瑚の死骸だった。
「なあ、これってなんか」
とくべつなやつじゃないよな。そう続けるつもりだった。だが、顔を上げると男はもう居なくなっていた。

しばらく、なにが起こったのか理解できなくて呆然としていたが、俺は静かに立ち上がって、砂山ビーチを後にした。
帰り際、長谷川さんに男のことを聞こうかとも思ったが、長谷川さんは全く同じ恰好で眠り続けていたのでやめた。西
の怪しい雲は、まだ西にあった。風向きが変わったんだろう。この島ではよくあることだ。

帰り道、俺はあの男のように珊瑚の死骸を左手に握って、カチリ、カチリ、音を立てながら帰った。

「なんだ、随分遅かったなあ、そんな遠くまで行ったのか」
家に帰ると、同居人が珍しく出迎えてくれた。同居人というか、立場的には俺が居候だった。
「いや、べつに、なんもなかったんだけど」
「ん、なに持ってんだその手?」
「あ、これは」
「珊瑚?なんだ、いまさらだな」
「いや、ほんと、なんでもないんだ」
「まあ、いいか、いやあでも、遅いからちょっと心配しちまったぜ、今日から旧盆だしさあ」
「は?」
「あれ、知らなかったか?この島はさあ、盆は旧盆の日付でやんだよ、ほら、仏壇見てみ?盆使用にパワーアップして
るから」
家の奥を覗くと、仏壇の両脇にはパイナップルが供えられていた。
「なんか、お前、そういうのに引っかかってんじゃないかって心配になったよ」
「そういうの、って」
「つまり、あの世の…」
「言うな!」
同居人の言葉を遮って俺は叫んでいた。








2012-8-31





(余談)
お気づきの方もいるでしょうが、この「砂山ビーチ、にて」で適当につくった長谷川さんというキャラクターが、気づ
けば銀魂の長谷川さんと設定もろかぶってました。他意なくこうなったんでびっくりしました。さきに長谷川と名前を
つけたんがいけなかったんやろうか、その三文字の印象だけでまだおにしてしまいました。すまぬ、長谷川さんすまぬ。