わざとでも、わざとでなくても、もうそれは昔の話だ。




となりのとなりの邂逅



大学通りの坂道を歩いていたらゲリラ豪雨に降られた。せっかくの休日に買い出しに行こうと外に出た途端にこれか、
げんなりする。ふと今年の始めに引いたおみくじのことを思い出した。忘れもしない「凶」だった。信仰にはまじめな
方ではないし、占いも全く信じない質だが、今年はこの凶を意識せずにはいられない出来事がよく起こる。それはもう、
おもしろいくらいに起こる。

一番大きかったのは、坂田と別れたことだろう。多少優柔不断な奴だとは思っていたが、まさか年明けに別れ話をする
ことになるとは思ってなかった。年末まで悩んでいたらしい(知るか!)。せめて年末にしてくれれば、新年の華やか
さにまぎれて、感情をごまかすことができたかもしれない。同性ながら2年も続いていたので、どこかだらけて来てい
た関係だったが、俺はこのまま、少しずつ少しずつ、こいつと駄目になっていくのも悪かねぇかと甘えた考えを持って
いたので、この別れ話はあまりにも急だった。心のどこかで、坂田がそんなことを考えちゃいねえことは分かっていた
が、自分の思考回路が余りに仕合せになっていたことを、急に思い知ることになったのはショックだった。仕合せボケ
なんて、貴重な体験をしていたもんだ。今ではそう思っている。

その後も不運は続いた。春には車をぶつけられ、夏には携帯電話が水没した。言ってもしょうがないのであまり思わな
いが、さすがに(なんで俺にばっかり)と考えないでもなかった。だが、夏が終わる頃には諦めることを憶えて、むし
ろおもしろがっている自分がいた。
「不運なんて、土方さんらしくありませんねぇ。」
後輩の山崎はそう言っていたが、自分でもそう思った。だが、次はどんな不運が来るのか、せっかくだから数年分の不
運が今年中に来ればいい、と言うと山崎に
「それはもう、不運とは言わないですよ。」
苦笑いされた。
坂田のことは、桜の季節に入る頃には、すっかり大丈夫になっていた。薄情、かもしれない。でも、新年に別れ話をす
る方が悪いに決まっているので、罪悪感はない。というよりは俺の中であいつは、もう過去になっていた。高校生の頃
を思い出すみたいに、坂田のことを思い出す。何処かについた傷が痛まない訳じゃない。あわよくばもう一度と、考え
ない訳じゃない。でも傷ごと、あれはあれだったのだと、過去を受け入れてしまっていた。

大学通りを急いで下り降りて、チェーンのコーヒー屋に入った。同じく雨宿りに来た客が何人もいて既にカウンターに
は列が出来ていたので急いで並んだ。最近のゲリラ豪雨はすごい。ぽつぽつ、降り出したと思ったら、次の瞬間にはど
しゃぶりになっている。少し濡れてしまっていた。髪の毛から流れ落ちる雨水を感じながら、はぁ、ため息をついてし
まっていた。



その次に現れた不運を、俺は来たかという顔をして迎えた。もしかしたら、薄く笑っていたかもしれない。
コーヒーを受け取ってから店内を見回すと、もう席はほとんど空いていなかった。喫煙席はとっくに諦めて、禁煙席の
フロアに入った。すると見事に一つだけ、席が空いているではないか。だがしかし、俺はまさにそこで来たかと思った。
その席の二つとなりには、坂田が居た。

(山崎、今年の俺はやっぱすげえぞ。)そう思いながら着席した。となりの女子高生はイヤホンを耳にさして英文法を
勉強していた。目は教科書に釘付けでこちらの視線には気づかない。となりのとなりの坂田は、小さな文庫本を開いて
いて、これまた目は本に釘付けになっていた。こちらの視線には気づかない。
(あいつが、本なんて!)まずそう思って(お前はまだ、バニラクリーム、フラペチーノか!)次にそう思った。
よくあんな甘えもんが、飲めたもんだ。俺は薄く呆れていた。視線を前に戻してからも、ちらちら坂田が気になった。
なにせ、あんなふわふわした銀髪は目立つのだ。いやでも視界に入るその色に俺は何度か目を向けてしまった。だが坂
田は、俺が見たこともないくらいの集中力で本を読み続けていた。もしかしたらあいつは、外がゲリラ豪雨だってこと
にも気づいていないのかもしれない。うっかり目を奪われた。

あの銀髪の柔らかさがまだ変わっていなければいい、と思ってしまった。そこまで考えて、思考を打ち切った。正直や
ばかった。このまま見ていたら、過去が、時間を飛び越えて、現在にまで追いついてしまいそうで怖かった。俺は鞄か
ら昨日買った本を取り出した。本は下の方が雨でぐっしょりと濡れていた。その不意打ちの不運に俺は思わず、ふふっ、
吹き出してしまった。毒気を抜かれたようだった。

俺はそのまま濡れた本を読みふけった。濡れてはいるが、読めないことはなく、その本が渇くまで没頭してしまった。
SF小説だった。主人公は、いたって普通の女子高生で、毎日をそれはそれは平凡に暮らしていた。しかし、心の何処か
では、いつでも少しの脱出願望を持っていた。脱出とは、今の生活からの脱出だ。高校生だから、自分の生きたいよう
に生きることはまだできない。TVの最近流行の女優を見ては、あんな風に華やかな生活もあるのかと、うっとりしてい
た。そんな彼女がふとした弾みに、「となりの世界」に紛れ込んでしまう。世界とは、一つではない。同じ時間軸を持
ちながら平行に並んでいる世界が、実はたくさんあるのだ。となりの世界は、はじめは紛れ込んだことにも気づかない
くらい基準の世界とよく似ていた。音楽の時間にピアノの蓋を開けて、鍵盤の白と黒が逆転しているのを見るまではこ
こがとなりの世界だということに彼女は気づかなかった。彼女はそのまま、平行する世界を流浪することになってしま
う。となりのとなりのとなりのとなりのとなりの……、基準の世界から離れる程、彼女の生活は変わっていった。もうい
くつめか分からない世界に着いたとき、彼女は最近流行の女優だった。パパラッチに追われながら「私は女優じゃない
わ!ただの女子高生よ!」叫びながら、彼女は走っていった。

ふと顔を上げると、となりの女子高生が居ない。そして、となりのとなりに居た、坂田も居なくなっていた。時計を見
ると、あれから有に一時間が経っていた。思っていた以上に、物語に没頭していたようだ。(案外おもしろかったな。)
この不運を俺は思いのほか楽しんでしまっていた。ゲリラ豪雨は、とっくにやんでいた。

そろそろ買い出しに行くかと、席を立ち上がった。そのとき、となりのとなりの椅子に何かを見つけた。坂田が読んで
いた文庫本だった。あんなに集中してたくせに忘れるのか。因果関係が全く不明だったが、俺はその本をつい手にとっ
てしまった。つきあっていた頃、漫画雑誌以外で坂田が本を読んでいるところなんか2年間見たことがなかった。割と
小説好きな俺は何度か本の物語を聞かせたこともあるが、坂田はだいたい生返事に聞き流していた。あいつは本の中の
世界より、圧倒的な現実の方に忙しかったのかもしれない。現実逃避は漫画雑誌の方が性に合ってんだろうな。途中か
らはそう思って、俺が夢物語を持ち出すことはなくなった。だからこそ、その本はとても気になっていた。

本には近くの書店のカバーがかけられていた。そろりとページをめくって、俺は今度こそ本当に、心から呆れた。なに
せそれは、俺の本だったからだ。

俺がいつか坂田の家に忘れていった本だった。当時のしおりがそのまま挟まっていて、それは中程でとまっていた。2
年前話題になったミステリーの文庫版だ。大衆向けで、読みやすかったが、あんまり趣味ではなかった。俺はその本を
一緒に持ち上げて、出口に向かう。

出口にはカップやトレイの返却口と、ゴミ箱があった。燃えるゴミ、燃えないゴミ、飲み残し、プラスチックカップ。
いつからこんなに分別は厳しくなったのか、でも俺は迷わず、その本を燃えるゴミに入れた。どすん。ゴミ箱が予想外
だと言いたげな音をたてた。
「ばーか、俺はもう過去だよ。」
あいつに真犯人なんて教えてたまるか。自分で過去にしといて、過去の俺をひきずってんじゃねえ。今の俺を見ようと
しねえ限り、あいつには真犯人は分からない。

コーヒー屋のドアをくぐりながら、来年は必ず大吉をひくと、かたく心に誓った。








2012-9-25


(風さん(@風待ち)へ、小数点以下の人間関係の表明)