僕の町に、海があればいいのに、と思う。
僕の町には海がない。川はあるが、幅三メートル程の、細く、弱っちい川だ。
そんな水の量では意味がない。
僕が欲しいのは、水平線を見渡す、限りなく広く、優しく、恐ろしい、大きな海だ。
一週間だけでもいい、海がやってこないかと、僕は見えないかみさまに祈る。
僕には、どうしても。海が。

自転車で三十分の距離に、海があればいいのに、と思う。
どうしようもなくなって、逃げ出した月曜日に
冷たいベンチにだらりと座り、首を傾げたような格好で
視点はどこにもあわさず、口は半開き。
長い、長い、フィッシュマンズの音楽を聴く時間が、僕には必要なのである。
僕には、どうしても。海が。

必要以上に、砂の目が細かい砂浜の、海があればいいのに、と思う。
居場所がなくなって、たどり着いた火曜日に
寄せては返す、波打ち際に寝っ転がって
耳の穴まで砂に塗れながら、半身を水没させる。
じっくり、体を冷やす時間が、僕には必要なのである。
僕には、どうしても。海が。

緩やかな、下り坂の先に、海があればいいのに、と思う。
苦しさを、吐き出す出口を奪われた水曜日に
僕は、脚から、ではなく、つむじから海へはいる。
頭から、ずるずる、ゆっくりと、呼吸のぎりぎりの、ぎりぎりまで時間をかけて。
次に呼吸をするときには、全く新しい僕になる。
そういう気持ちでいる。
そんな、せめぎあう時間が、僕には必要なのである。
僕には、どうしても。海が。

夕方には、圧倒的なオレンジに染まる、海があればいいのに、と思う。
孤独をついに、いとしく思い始めた木曜日に
僕は海になりたいと思う。
際限なく果てしないのに、時には太陽に黙って身をゆだねている。
やわらかい海の膨大な時間が、僕には必要なのである。
僕には、どうしても。海が。

僕だけしか知らない、海があればいいのに、と思う。
考えるのもいやになって、いろんなことを投げ出したくなった金曜日に
僕ははじめて海にはいる。
僕というちっぽけな体積を、精一杯に海に主張してみる。
大きなものに、圧倒的に負ける時間が、僕には必要なのである。
僕には、どうしても、海が。

土砂降りの、海があればいいのに、と思う。
とうとう涙が流れた土曜日に、僕は土砂降りの、大荒れの
破壊の意思に満ちた、海に行きたいと思う。
叫んでも、わめいても、僕自身にすら、僕の声が届かない。
涙さえ吹き飛ばされてしまう。
泣き叫んでいる僕の存在を、確かにあったはずなのに、なかったことにしてくれるような
そんな、優しい時間が、僕には必要なのである。
僕には、どうしても、海が。

鈍い曇り空の下に、海があればいいのに、と思う。
歩き出してみたくなった日曜日に、僕は海にさよならを言う。
僕の言い訳を全て聞き入れ、肯定し、しかし何もしない海にありがとうを言って
今日僕は、歩き出してみたいと思っている。
何故なら、今朝のうす曇の中昇ってくる朝日に
グレイトーンの青に、今日はいい天気になることを教えられてしまったからである。
行かなければならない(もうここにはいられない)と思ってしまったのだ。
僕には、そんな海が、必要なのである。
そう、僕には、どうしても、海が。








2012-3-31 改訂





今年は四月にむけて区切りをつけたくて五年くらい前の古いメモを引っ張り出してきました。
昔のメモはほとんど全部一人称で書かれているので、見返すと痛々しくてたまらんのですが
こういう痛さを剥き出しにできるのも強さやったんかなと今では思います。
若さ、とも言うかもしれないけども。