たったひとつの問いにさえ、応えることは難しい



やさしい仕組み



(11月某日の話)
「昔つき合ってた、死んだ彼女と寝てきた。」
と言ったらさすがの山脇も驚くだろうか。朝6時の帰り道を、とぼとぼ歩きながら考えていました。私の家は駅から20
分かかるので、昨夜の出来事を同居人に説明するかしまいか、その二択を果てしなく悩むことに費やしました。今年の
11月は割合と暖かいのですが、でもやはり朝は寒く手袋を忘れたことをぼんやりと後悔していました。いいかげん、私
の性格や体質を理解しはじめ、あらゆることを諦めてくれるようになった同居人ですが、死者との性交の話を本気に聞
いてくれるとは思いがたく、延々と迷っていました。自分でも映画の脚本やなにかの戯曲のような気がしていて、やっ
ぱり夢だったんじゃないかとまだ頭のどこかでは思っています。けれど、ホテルを出る前に鏡で見た、首や腕、手首な
どにしっかりついた手痕が、やはり現実なのだと囁いていました。もう一度手首を見ましたが、まだうっすら、赤く指
の痕が残っていました。
「うーん」
しばらく考えましたが
(あ、みずたまり、そうか、昨日の雨か。朝のみずたまりはこんなにもきれいなのか。)
途中からはみずたまりに意識を奪われてしまいました。

(昔つき合ってた彼女の話)
彼女とは、そんなに長くつきあっていた訳ではありません。たぶん、半年も一緒に居なかったと思います。当時私は大
学生であの頃は声をかけてくれる女の子は割合多かったから、どうやって出逢ったんだかも、正直あんまり憶えてはい
ません。特に当時は、あらゆることに「拘る」ことが面倒だったせいもあって、女でも男でもあんまり関係がなかった
から、余計に記憶があやふやとしているころなのです。
けれど、それでも、その彼女のことはよく憶えていました。外見は、当時の女性向けファッション紙の清楚と呼ばれる
ものをそのまま取り出したようで、白いワンピースが恐ろしく似合う人でした。それに真っ黒の長い髪が本当によく映
えて、古い日本画のような美しさがありました。私は彼女のその雰囲気がとても好きで、よく白いものをプレゼントし
たくらいです。話し方も雰囲気と違わず、裕福な家庭のお嬢様だということが、言わずとも周囲に伝わっていました。
事実、とても有名な会社のご令嬢でした。言葉遣いが美しい女性との会話というものは、一種の興のようなものがあっ
て、まあ、私は彼女と居る時のその空気感が好きだったんですよね。言ってしまえば。

ですが、別れ話を切り出したのも私の方からでした。理由はいくつかあったと思うのですが、たぶん一番は彼女が自分
の意見を持たないからでした。良く言えば、自分を取り囲む運命に素直な人だったんだと思います。彼女はそんな家庭
環境ですから、自分の行き先は随分前から決められていて、進学も親の言うままに従ってきたようでした。そういうこ
とを疑わず、敷かれたレールを歩けるというのはある種才能なんだと思います。ですがその性質は、親にとってはあり
がたかったでしょうが、恋人にとってはつまらなかったのです。決められたシナリオに従う彼女は美しい演者ではあり
ましたが、当時の私からはどこまでも人形のように見えました。だから途中から彼女の言うことが、どこかで聞いたこ
とのある言葉でしかないことに気づいてしまって、私にはいつまでも彼女の芯が見えませんでした。それが見えないの
ではなく、ないのだと悟ってしまったとき、私は彼女にさよならを告げたのです。

(昔つき合ってた死んだ彼女の話)
そんな彼女にとって、自分の死というものはあまりにも予想外だったのでしょう(これはきっと誰でもそうなのだろう
けど)。原因は交通事故で、しかもドライバーの脇見運転というつまらないものでした。彼女は、一方的な被害者と言
えるような状況だったと聞いています。彼女が亡くなったとき、私はもうとっくに大学を出ていて、一度就職して、そ
してその会社を辞めたあたりでした。辛いことは重なるもんだなあと思いながら、お葬式に出向いた記憶があります。
彼女を天国に送り出すためにと思った訳ではありません。実は私は日常的にあちら側のものがよく見えるので、「最近
はどうですか?」と世間話をしに行くつもりだったのです。シナリオを失った役者はなにを考えるのだろうか。死者に
対してあまりにも不謹慎でしょうが、私にとっては死者もその程度のものだったので、仕方がありません。

しかし、期待とは裏腹に、彼女は自分のお葬式には来ていませんでした。確かに急な事故で亡くなった方は自分の葬儀
に現れないことがままあります。周り以上に本人が死んだことを受け入れられなかったり、ひどい時は死んでいること
にしばらく気づかないことがあるのです。彼女のお葬式は大学を卒業したての若者と、父親の会社の関係者がほとんど
という、珍しい光景のものでした。本当に、ただただ悔しさや悲しみの涙を流す方もいらっしゃいましたが、小声によ
る、あらゆる種類の会話に満ちた、空々しいその空間が息苦しくて、私は早々に立ち去ってしまいました。私は他人の
野望という思考にめっぽう弱くて、作為ある思考の近くには居れないのです。そういう時に人間が発する、なにかエネ
ルギーめいたものが、たとえその人が私に直接関わらなくても、私をどっと疲れさせるのでした。
いそいそと会場を立ち去り、呼吸を整えながら歩きました。白い息を周期的に目の当たりすることで、心を少し落ち着
けました。その帰り道に、彼女が亡くなった事故現場に寄りました。もしかしたら彼女がまだそこに居るかもしれない
と思ったからです。しかし、そこにも彼女はおらず、結局彼女とは会えずじまいのままになりました。

(雨が降りそうな夜の話)
あの日、会社帰りの道で赤信号を待っていた時、懐かしい香水の匂いがしたのです。ふと前を向くと、数年前に亡くな
ったはずの彼女の姿がありました。私はいくらなんでも自分の目を疑いました。その交差点は、彼女が亡くなった場所
でもなければ、私たちの思い出の場所でもなかったからです。あちら側のものはあまりきまぐれに行動を起こしたりは
しません。私が見ることのできる程度のものは、因果や業に縛られていることが多く、自分勝手に行動範囲を広げられ
るようなものを私は見たことがありませんでした。しかし、彼女はしゃんとそこに立っていました。白いワンピースを
着ていました。それは数年前に流行った型で、元より私が贈ったものだったので間違いようがありませんでした。
「おひさしぶり。」
彼女はあの頃と全く同じ微笑み方でそう言ったので、私は一瞬、彼女が生きてるんだか死んでるんだか、分からなくな
りました。
「…おひさし、ぶりです……。…最近は、どうですか?」
思わず、そう尋ねていました。
「ご存知の通りですよ。なにひとつ、なくなってしまいましたわ。」
彼女は寂しそうに、けれど冷静に、自分の身に起こったことについては理解しているように言いました。
「…どうしてここに?」
私は不思議な感覚に苛まれながらも、できるだけ普通に会話を続けました。
「最近はいつもここに居るんですよ。この辺りはすぐに景色が変わるから、退屈しないのです。」
(…嘘だ)
と、思いました。でも言葉としては嘘であれど、その嘘のつき方が紛れもなく彼女のものだったので、私は事実の会話
をするよりも懐古の念に捕われました。
「ビルが、できあがったり、壊されてまた、新しいビルが建っていくだけの景色ですが、そんなにおもしろいですか?」
「ええ、こんなスピードで建物が建つ場所なんて、ここくらいしかありませんから。飽きないんです。もしよろしけれ
ば少しお時間はありませんか?あなたともう少しお話がしていたいわ。ねえ、あそこにいきませんか?」
そう言いながら、彼女は駅前の名のあるホテルを指差しました。
彼女がはっきりと、なんの後ろめたさもなく言いきったので、私は思わず頷いていました。
「こんなところで立ち話では、あなたが変な人だと思われてしまうわ。さあ、いきましょう。」
彼女はそう言うと、くるりと踵を返し、案内のように私の前を颯爽と歩きはじめました。たわいのない会話の中、白い
ハイヒールがきらりと街灯を反射し、高潔に光りました。しかし微かにさえも、足音は鳴りませんでした。

(雨が降りはじめた夜の話)
ホテルに着くと突然、バケツをひっくりかえしたように雨が降りはじめました。ゲリラ豪雨です。ここ数日予測できな
い雨が続いていたので驚きはしませんでしたが、何かのタイミングは予感しました。空気が急激に湿気を含み、ロビー
を満たす空間が鈍くなりました。矢印の向きが変わったんだろう。そのことにはぼんやりと気づいていました。けれど
「予感はできるけれど対策はたてない」自分の悪い癖も自覚していました。

ホテルの部屋に入ると、いきなり彼女に押し倒されました。私はその時になってやっと、彼女が向こう側の人だという
ことを実感しました。しかしもう、後戻りを選択できるラインは、すっかりと越えてしまった後でした。けれどもしか
したら、あの香水の匂いに気づいた時点から、私はこうなることを予感し、期待し、流されてきたのかもしれません。

(昔つき合ってた死んだ彼女と寝た話)
彼女は私を押し倒すや否や、私の首に唇をおとしました。のど仏に歯を立て、ゆるく噛まれました。すかさず右手で首
の後ろをなぞられていました。反応を返せないままぼんやりとしていると、彼女はゆっくりと顔をあげ、私の顔をしば
らくじいっと見つめると、ふっと慈愛に満ちたような眼で穏やかに笑いました。
(…この表情は、なんだろう?)
私は自ら頷いてこの状況に追い込んだにも関わらず、その瞬間まで彼女に襲われるんだと思っていました。なので彼女
のこんな顔は予想外でした。慈しんでいるような、なのにどこか寂寥を含んだ表情で、私を捉えていました。その理由
に考えが至る前に、彼女は優しく私の眼を塞いでしまい、ゆっくりと唇をあわせるキスをしました。どれくらいでしょ
う。角度を変えながら、ただただ、ふれあわせるだけのキスが続きました。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音が鳴っていま
した。押し倒された時から彼女の左手に掴まれていた腕を、ぎゅうと強く握り込まれ、まるで縋られているようだなあ
と思った時には、私の身体はすっかり彼女にほどかれていました。ふれあわせるだけの子供のようなキスは、随分と気
持ちがよくて、また、頼られるように腕を握られることも、私をたまらない気持ちにさせました。そんなことが言葉と
して考えられなくなるころには、私の唇はだらしなく開いていて、彼女にゆるりと舌を奪われていました。
私からも彼女の舌を追いながら、腕を肩に回して抱きしめると、彼女は両手で首の後ろに触れてきました。はじめのよ
うになぞるだけでなく、指先でやわらかくひっかかれたり、手の温度を首に移すかのように押し付けられたりしている
うちに、私はふと、昔彼女に言ったことを思い出して、ああ、もう、だめだ。と思いました。
「首を触ってくれないか。」
というのは、古い古い私から彼女へのお願いでした。首という人間の急所を懇意になった女性に晒したくなるのは、遠
回りながらも私の信頼の表現でした。もっと本能的なものなのかもしれませんが、とにかく彼女はそんな他愛のないお
願いを、律儀にも憶えていて、執拗に首を愛撫してくれているようなのでした。一度唇を離し、今度は私から彼女にキ
スをしたところで、彼女はもう一度さきほどの微笑を見せ、ゆっくり服を脱ぎはじめました。

その後のことについては、はっきりとは思い出せません。それは彼女があちら側の人だったから、かもしれないし、私
の脳が彼女の身体を貪る欲望に取り憑かれたから、かもしれません。彼女はその後も生前では見たことがなかった積極
性で私をリードし、激しいセックスに持ち込みました。ですがどんなに行為が加速しようと、愛撫が執拗になろうと、
彼女が性交中に声を漏らすことはありませんでした。

彼女が騎乗位で私を射精させたあと、もう一度私の首に手を伸ばしました。両方の親指を喉仏にひっかけ、小指から包
むように私の首に触れました。そして、やさしくやさしく撫でられた後に、ゆっくりゆっくり、じわりじわり、日が沈
むような遅さでしたが、力をかけて、私は首を、締められていました。私はそのとき、酩酊した頭ながらも不思議と覚
悟は決まっていました。このまま彼女に向こう側へ連れていかれるのかもしれないというのに、恐怖も疑問もやって来
なかったのです。彼女のなすがままで構わない。そう思いました。彼女に負い目を抱いていた訳ではありません。確か
に彼女の若すぎる死は理不尽が塊で降ってきたような出来事でしたが、生きていればそんなこともあると、だから、自
分が幽霊に殺されてしまうことだって、充分あり得ることだと、私は受け入れてしまっていました。もしかしたらこう
いうことも、薄情というのかもしれません。
「かっ…ふ…、うぅ…」
彼女の手の力は少しずつ、でも確実に握力を強めて私の首に負荷をかけました。さすがに苦しくなってきて、掠れた声
をあげました。
(できれば、あっさり死んでしまいたかったけど、そうもいかないか)
覚悟はあるくせに、言い訳のようにそんなことを思いました。

ぎりり、ぎりり、締められ続け、だんだん視界が暗くなりはじめました。彼女の顔をいつまで見ていられるだろうかと
考えていると、ぐしゃり、彼女の表情が突然歪みました。もうあまり見えてはいませんでしたが、悲痛な、顔に見えま
した。眉根をよせ、唇は震えながらゆるく開いていました。そして、わななく唇をなんとか押さえつけるように、彼女
は言いました。

「……どうして?」

部屋に入って以来、いや、もしかしたら香水の匂いを嗅いで以来、はじめて私は「彼女の言葉」を聞いた気がしました。
(どうして?)
どうしてだろう?私には分かりませんでした。彼女が何に対してそう言うのかも、私が何を分からないと思っているの
かも、分かりませんでした。どうして?でも何にせよ、難しい質問であるとは思いました。そして、ずるい聞き方だと
も。でもなぜだかふっと笑みがこみ上げました。それは多分、寂寥を含みながらも慈愛に満ちた、彼女のあの顔と同じ
種類のものだったと思います。

すると、突然彼女の手が私の首から外れました。
「げほっ!…あ…っ、かふっ、ごほっ…!」
私は激しく咳き込み、彼女は私の上から飛び退きました。未知の生物を見るような眼でこちらを見ていました。私は涙
眼になりながらもなんとか彼女のほうに顔を向けました。
(どうして?どうしてだろう?どうして私は彼女に殺されてもいいと思っているんだろう?こんなに理不尽な出来事を、
どうしてそのまま、飲み込もうとしているのだろう?怒ったっていいではないか、逃げたっていいではないか、やめて
くれと拒絶すればいいではないか、理不尽に抵抗したっていいではないか。抵抗がめんどうだという訳じゃない。死に
たいと思っている訳でもない。でも、ならどうしてそんな気持ちにならないのだろう?どうして、どうして?)
酸素の足りない頭がぐるぐる回り続けました。でもどこにだって答えはなく、見つかるとも思えませんでした。でも、
それでも、私はなにか言葉を発したくて、発さない訳にはいかなくて、このまま彼女と離れる訳にはいかなくて、途切
れ途切れながらも

「だって、ひとは…、許すいきもの、でしょう…?」

そう、言いました。
すると、すっと彼女の表情がなくなりました。次に眼をまんまるくして、これでもかというほど開いて、呆然とこちら
を見つめていました。どれくらいでしょう、私たちは見つめ合い続けました。それは途方もなく長い時間で、終わりが
やってこないかと思うほど長い時間で、お互いの眼から溢れるエネルギーで眼球から溶け出してしまいそうなほど見つ
め合い続けました。彼女の瞳の色素をはっきり覚えてしまうほど時間が経ったとき、終わりは案外にあっさりと訪れま
した。彼女がゆっくり、表情を変えたのです。くしゃり、と笑っていました。
いつのまにか、彼女はあの白いワンピースで、白いハイヒールを履いていました。そして、ハイヒールが一瞬きらりと
光ったかと思うと、その笑顔のまま、少し悔しそうにはにかんで

「…やさしい仕組みで、できてるんですね…」

そう言った途端、彼女の姿は、もう、全く、見えなくなってしまいまいた。








(雨が上がった朝の話)
目を覚ますと、そこはホテルの一室でした。私はコートのままベットの中に居て、きれいに掛け布団がかかっていまし
た。昨日の激しい情交などまるでなかったかのように、朝の空気は清潔で清貧さがありました。真っ白のシーツは皺一
つなく、美しい彼女の姿を思い出させました。窓の外はまだ薄暗く、夜明け前の冷たさに包まれていましたが、どうや
ら雨は随分前に通り過ぎたようでした。今日はきっと晴れるのだろうな。その予感は随分と私を元気づけて、重たい動
作でしたが帰り支度をはじめました。あの香水の匂いは、もうかけらも思い出せそうにありませんでした。
(許すいきもの…、か)
私は最後に彼女に送った言葉を反芻しました。彼女の、それこそ生涯をかけた問いの応えとして、あれはふさわしかっ
たあのか、いまいち自信はありませんでした。
(許してほしかったのは、やっぱり、私のほうだろうな)
それは確信していました。けど、私は何を許されたかったのか、それは分かりませんでした。

(玄関扉が開いた話)
私はみずたまりに眼を奪われたまま歩き続けて、やっと自宅の扉の前に着きました。しかし結局この話を同居人に言う
か言わないか決めていないことに気づきました。実はつい数ヶ月前にも、私は今日のような朝帰りをしたことがあるの
です。そのとき寝たのは普通の生きている人でしたが、めんどうな相手で私は随分消耗していました。随分いやな匂い
の香水をつける人でした。山脇は律儀で心配性な男なので私の帰りをリビングのソファで待っていました。私は山脇に
対しては元大学の先輩だという力関係をつかって何も聞かせないことができました。聞かせないというよりは私が何も
応えなければいいのです。けれど彼はなにも言えない代わりにとても複雑な色の眼をするようになりました。
「…うーん」
もう一度それを迷っているうちに、がちゃり、鍵の開く音が響いて内側からドアノブが回りました。
「………、いつまでそこに居る気ですか。この寒いのに…」
ひどい隈の、いかにも不機嫌な顔をした山脇が出てきました。
「あ、…」
私は予想外のことに言葉を失ってしまいました。
「……入らないんですか」
「いや、あの…」
彼女との比ではありませんでしたが、言葉が戻ってこない私は言葉以外のもので語ろうとするしかなく、結果、山脇と
しばらく見つめ合うことになりました。
「……?、…日高さんは寒いの得意でしょうけど、俺は全然だめなんで入って下さいよ」
(だめだ、全然伝わらない)
あまりにも何も伝わらないので、つい愕然としましたが、しかしそれもそうです。なんせ今は早朝であり、山脇は徹夜
明けか浅い睡眠から覚めたばかりの状態であり、私の朝帰りの理由は、「昔つき合ってた死んだ彼女と寝てきた」なの
です。こんな悪条件でアイコンタクトでなにかを伝えようとする方が間違いでしょう。私は失語症患者のように身体を
小刻みに震わせながらもう一度逡巡しました。そのとき

「おかえりなさい」

山脇が慈愛と寂寥の間の、あの顔をしていました。

「………ただ、いま」

私がそういうと、山脇は表情から寂寥をぐっと薄めて
「コーヒーですか、紅茶ですか」
毎朝おなじみになった科白を言ってくれました。








2012-11-23