もう一度だけ、口笛を吹いてみた。



ゆきおと





「どさり」





大げさな音で目が覚めた。
(どさり?)
どうにも聞き慣れない音だった。都会の街で聞こえる大げさな音というのは、だいたいよろしくないことだ。実を言
うと聞き慣れない音で目が覚めることは、ままある。
 あるときは「がちゃん」という激しい音で目が覚めた。音が随分近くて、なんだと飛び起きてカーテンを開けた。夜
中の三時では何も見えなくて窓を開けて外に出ると、アパートの前で酔っぱらいの男がゴミ置き場に突っ込んでいた。
翌日は週一のビン・カンの収集日で、ゴミ置き場にはすでに多量のゴミが捨てられていた。男が倒れた勢いで、いくつ
かゴミ袋を跳ね飛ばしたのだろう。男のスーツはぐずぐずになっていて皺だらけで、しばし唖然と見つめていたが、見
ず知らずの男の失敗につき合わされていることに馬鹿らしくなって、窓を閉めた。あの男がどうなろうが知ったことで
はない。それよりせっかく温めた身体がすっかり冷えていて散々だった。男のくせに冷え性というのは笑えなくて、自
分の嫌いな性質を改めて知らしめられたのが忌々しかった。
 またあるときは「ぎゃー」という音で目が覚めた。ぼんやりした頭ながら、赤ん坊の声だと思った。赤ん坊が泣くの
は仕方がない。身も世もなく泣けるのなんて、赤ん坊の特権だ。これは聞かないふりをしてもう一度眠ろうと思ったが
赤ん坊の泣き声はしばらく止まなかった。「ぎゃー、ぎゃー」その音は規則正しく、ずっと聞いているとなにかの機械
のように思いはじめた。こんなに気持ちを不安にさせる機械があったらどうするかを考えた。いや、どうしようもねえ
な、と思った。どうしようもないことはそのまま飲み込むか逃げるかのどっちかだ。自分は逃げるだろうと思ったとき
「ふぎゃー!」違う鳴き声が混じって、そこでやっと猫だと気づいた。
(なんでぃ)
ほっとしたようながっかりしたような気分になった。やっぱり赤ん坊はあんなに機械的には泣かないんだと。人間の声
はやっぱり、もっと人間らしくあるのだろうと思った。けど、じゃあ猫は機械なのか?そこまで考えて、ぶるりと背筋
が震えたので、今度こそ何も聞かなかったことにして布団を被った。





(どさり?)
 重い音だったので、また酔っぱらいの男かと思った。明日は可燃ゴミの収集日だから、前ほど派手な音はしなかった
のだろう。そう思ったが、もう一度眠れる気分にはなれなかった。目を開けて時計を見ると朝の六時だった。毎日起き
るのはだいたい七時だ。こんな微妙な早起きはなんにも嬉しくない。だいたい七時だって充分早起きだろう。これ以上
早起きを積み重ねたって、三文の得が四文になったりはしない。きっとしない。ただただ睡眠時間が削られたことに苛
立ちながら、仕方がないので起き上がってキッチンにあるガスヒーターのスイッチをいれる。あの酔っぱらいの男を見
たときからさらに季節は過ぎて、ここ最近はキンと凍るような寒さが続いていた。水に触るのさえ嫌になってきていて
流し台はすぐ洗い物に占拠された。水が湯になるのを待っているのも面倒なので、どうしようもなかった。嫌でもその
光景が目に入ってげんなりしながら、部屋に戻って勢い任せにカーテンを開けた。「ジャッ」とレールをリングが滑る。
どちらも金属なので気持ちいい音が鳴った。朝というのはだいたい憂鬱なものだが、この音だけは救いのように冷えた
部屋に響いた。

(・・・・・・・・・)

 窓の外の景色に、俺はうっかり言葉を失っていた。「ジャッ」という音が、しばらく耳の中を反響した。
 視界一面、いつもの景色に、雪が積もっていた。
 昨日の雨は止んだのではなく、途中で雪に変わっていたのだ。しかもこれは、積雪何十センチだろう。駐車場の車は
もう一枚白い屋根を着けたようになってしまっていて、ゴミ置き場はもう何ゴミが捨てられているのかも分からなかっ
た。呆然としている間にも、雪はどんどん降り積もっていて、目の前の道にはまだ誰の足跡もなかった。さっきの音は
雪が屋根から滑り落ちる音だった。
 この街に来てから雪は見ていなかった。でも幼い頃は雪の多い街に住んでいたのだ。それこそ毎年積雪は四十センチ
を越えて、多いときは一メートルになるような所だった。だから雪なんて、全然珍しくないはずだ。けれど、うっかり
固まってしまうくらいには、時は流れてしまっていた。





 あの田舎街でまだ姉と住んでいたころ、よく姉に雪だるまをつくらされた。子供はやっぱり雪遊びが好きだったが、
毎回毎回雪だるまではさすがに飽きてきていた。それに俺は当時から冷え性をこじらせていたので、正直にいうと、家
の中で炬燵に埋まっている方が好きだった。でも姉はそんな俺をむりやり外に連れ出し
「ねえ、そうちゃん、今日は三段のつくってみない?」
そう、きらきらした顔で言われると、とてもじゃないが逆らえなかった。雪だるまというのは子供がつくるには結構大
変なものだった。姉が求めているものが、大人の背丈ほどの雪だるまという本格的なものだったせいもあるだろう。し
かも、三段。雪玉を転がすのも自分の太腿の高さくらいまでが限界で重くて押せなくなる。それ以上の球にしようとす
るなら、上からぺたぺた雪を貼つけてならしていくしかない。でもなにより大変なのは、頭を乗せる作業で、重い雪玉
を持って脚立に登るのはなかなか勇気がいった。一度雪玉を落として割ってしまい、もう一度てっぺんの頭をつくって
いたとき
「あ!」
「げっ!」
当時近所に住んでいた土方さんが通り過ぎた。姉は土方さんにかけよって、雪玉をのせて欲しいとお願いをした。俺は
今すぐ飛び出してしまいたかったが、ぐっと奥歯を噛みしめた。あんなにしっかり奥歯を噛みしめたのは後にも先にも
ない。だから俺は、奥歯を噛みしめる最初の記憶を一生忘れないだろう。結局てっぺんの球は、一番下の球の両脇に脚
立を立てて俺と土方さんが左右で支えながら乗せることになった。俺は相変わらず奥歯を噛みしめながら、土方さんの
すました顔を見ていた。なんでもないような顔がひたすらに腹立たしかったが、決して口にはしなかった。
「やった!」
てっぺんの球が乗った瞬間、姉が跳ねて喜んでいたので、俺はよくやったぞと自分を褒めた。
 これだけ大きいのを作れば、溶けるのにも時間がかかる。俺はしばらく雪だるまから開放されること喜びながら、姉
になぜそんなに雪だるまが好きなのか聞いた。
「だって、楽しいじゃない?あれだけ大きいのはそうちゃんとじゃないとつくれないし。冬は長いでしょ?だから少し
でも楽しまなきゃ。」
その時の姉の顔も、俺は一生忘れないと思う。





 結局いつもより三十分も早く家を出た。誰も歩いていない雪に堂々と足跡をつけていくのは、この歳になっても気持
ちがよかった。「さくっ、さくっ」新雪を踏むと軽い音が鳴った。冬の朝の街は雪のせいで余計に静かになっていた。
自分の足音だけが大きく聞こえて、なにか特別なことをしているような気分だった。今ならどんな音も特別になるよう
な気がして口笛を吹いてみた。なんの曲にしようか。音楽には疎いので、本当に有名な曲くらいしか知らない。数少な
いレパートリーから迷って、なんとなくスタンド・バイ・ミーのあの曲にした。
(だーりん、だーりん、いえー)
しかもそこしか知らない。これも合っているかは分からなかった。
 自分でも陽気だと思いながら、駅までの道を歩いた。口笛と足音で、世界は自分のものになったような気がした。調
子に乗ってくるりと回った時、自分が歩いてきた道が目に入った。そこには自分の足跡しかなかった。何十メートルも
自分の足跡しかなかった。
(そうか)
 口笛をやめた。自分は、都会に来てしまっていた。確かに世界を一人占めしているのに、もう喜んでくれる人も、奥
歯を噛みしめたくなる人も居なかった。
(なんでぃ)
さみしくはなかった。ただ胸のどこかが、ほんの一瞬だけ痛かった。





 角を曲がればもう駅だ。でもその手前にあるコンビニのことを思った。温かいカフェオレのことを思った。こんな日
は肉まんもいいかもしれないと思って角を曲がると、どでかい雪だるまが現れた。
「………、旦那ぁ、なにやってんでさぁ。」
「あ!?ちょっ!沖田君!?そこ、そこ支えてて!」
コンビニの前では、ここのアルバイトの坂田が雪だるまをつくっていた。もういい歳のはずだが、俺がこの街に来たと
きから坂田はずっとここのバイトだ。その坂田がなぜか雪だるまをつくっている。それに、おなじみの緑と青の店名が
入った看板に届きそうなくらい、その雪だるまは大きかった。しかも、三段。どこから持ってきたのだろう、スコップ
も脚立も揃っていたし、坂田はしっかりスキー用のグローブまではめていた。
「こんな朝から、このでかさの雪だるまとか、やっぱ旦那、阿呆だったんですねぃ」
それでも言われるままに坂田の言う通り下の球を支えると、坂田は慎重にてっぺんの球を乗せた。普段は死んだ魚の目
をしているくせに、こういうときは異様に眼がきらめく男だと思った。
「おおー、あせったー。さすがに一番上の球やり直すのは勘弁だわー。」
脚立を降りながら坂田がそう言ったかと思うと、もの凄い速さで店内に引っ込んでしまった。後を追いかけると、最近
導入したセルフのコーヒーメーカーで勝手にコーヒーを飲んでいた。
「職権乱用は客の見てないとこでやってくだせえよ、旦那ぁ。」
「あ?いいじゃねえか。ばばあにバレなきゃ大丈夫だよ。」
そう言いながらちびちびコーヒーを啜っている。だがその下にグラニュー糖の袋の屑が何本も転がっているから、バレ
るのもそのうちだろう。
「なんで、あんなでっかい雪だるまなんですかぃ?」
「んあ?なんだよ、雪積もってん、だぜ。普通雪だるま、つくるだろーが。でかい方が溶けねえし。」
こんな朝っぱらから雪だるまをつくる元気はあるくせに、寒さに強い訳ではないのだろう。坂田はコーヒーを落としそ
うなほど震えていた。
「ははっ!やっぱあんた、最高の阿呆ですねぃ。」

 結局コンビニでカフェオレと肉まんを買って外に出た。坂田が震えながらお釣りを渡してくるので吹いた。
 駅のホームでカフェオレの缶を開けながら、もう一度だけ、口笛を吹いてみた。

(だーりん、だーりん、いえー)








2013-1-19