この処置室の隣には小さな庭があって、それは病院の裏手に設置された、花壇やベンチのある大きな庭とはまったく離れたところにある。いわば分室、といったところで、元は用務員室だったというから、きっとその用務員が作ったのだろうと思う。
金木犀と低い桜の木が途切れとぎれに垣根のようになっていて、その囲われた中に木や花が植わっている。その中で一番背の高いのが、白い花を咲かせる木だ。
彼女はそれを見つけて、鳥につつかれるとすぐに茶色くなってしまうけど、いまは真っ白ですね、とおれに話した。話を聞いている間も、時折外を見ているのは知っていた。今はその木が床にその細い枝を映して、かさかさと乾いた音を立てている。
「坂田」
不意に声がして起き上がると、窓に人影が映った。同じように、床にもそれが投影されている。木は半分隠れて見えない。
「もう寝たのか」
「起きてる」
「居るじゃねえか」
窓の方をもう一度確かめたが、もうだれも居なかった。
「なんだよ?」
三時間前、この病院に入院している少女が行方不明になった。警察と病院を巻き込んだその特異な事件は、いまごろニュースになっているはずだ。きっと電話が各所で鳴り響いているに違いない。明日の朝になれば、もっと公に騒がしくなる。
彼女が夜を選んだのはとても適当なことのように思えた。
「あの女の子は?」
19歳の少女だ。もともと心臓が弱く、精神面を煩ったこともあり、ここに入院していた。
彼女はパジャマのまま抜け出して、点滴針をつけたまま歩いたのだろうか?邪魔だったに違いない。それに彼女は、病院内用のスリッパや靴ではなく、柔らかな白いバレエシューズのような物を履いていた。
「彼女と面識あったのか?」
「お前を訪ねたとき、庭にいた」
冷蔵庫を開けると薄暗闇の中でオレンジがかった光が分散し、それが柔和な微笑みのように感じられる。もともと資料などが押し込まれていた棚から砂糖を詰めた壜を出しておいて、牛乳パックを取り出して二つ分のカップに注ぎ、電子レンジで1分の設定に合わせる。
うっすらと靄がかかったように不安なとき、こういう機械の音は味方だ、と思える。
「土方、そこの立てからスプーン取って。二つな。」
「なあ坂田」
あと十秒残したところで開けて砂糖を入れ、片方を土方に差しだす。
「あの女の子が行ったところへ行きたい」
ささやかな処置室である分室を出て、大きな中庭にでた。見つかれば土方は戻らなければいけないし、おれはきっちりと怒られなければいけない。上の人間が何人か座る中、こんな報告をするのは嫌だ。
「土方、こっちだ」
顰めた声で言えば土方は振り返ってついてくる。ここには垣根はなく等間隔に柵があるだけなのだが、それはお飾り程度のもので、ある程度の体躯なら抜け出ることができる。昼にやれば見つかるが、いまの時刻なら問題ない。
「こんなとこ抜けれるか?」
「一本はずれるんだ」
土が削れて余裕のできた柵がある。これは処置室に来た子供にお菓子をあげたら教えてくれた情報なのだが。
「あった」
上に少し持ち上げると幅が広がる。
「ここ、こんな整備の仕方で大丈夫なのかよ?」
「こんなんすんのおれたちだけだわ。ほら、先行け」
無事に外へ出て振り返ると、いままでの住処だった病院はコンクリートの素っ気ない箱で、気味が悪かった。分室はちょうど白い花の木で隠れたようにひっそりしていたが、本館よりもずっと柔らかい印象で、悪くない、と思わせる。
近くでみることと遠くからみること、それはまったくの別物のようだ。
つづく