自分の処女膜を破ってやろうと思ったのだ
スモーキー・センセーション
朝焼けがぼんやり夜の紫を薄めはじめた頃、啓はピースに火を点ける。思い出したように早起きをした朝は父のシガレ
ットケースから決まってピースを盗んでいた。ヘビースモーカーで煙草が趣味と言えるような父は、シガレットケース
にたくさんの種類の煙草を入れていたけれど、啓はピースしか盗まない。ピースだけが不思議と減っていく銀の箱を父
はどう思っているのか。どう考えても気づいていないのが悔しいほどの事実だった。そのことに心を砕いたってしょう
がない。そんなことは十七歳でも充分わかってる。
「わかってる。わかってるから。」
啓は誰にも向けない言葉を煙と一緒に吐き出すと、目を細めて遠くを見た。目が悪いから、最初からそんなに見えてい
ないけど、薄くなった月の光が丸い点のように滲んでいった。
何も見なくていい時間が啓は好きだった。だから、誰のものでもない早朝はとても好きだった。TVは無機質な高速道路
を映してばっかりだし、ラジオも時間を持て余した音楽を流すだけだ。本当は生きていくのに、そんなに多くの情報は
いらない。だから何も教えてくれない早朝の機械たちが、啓はとても愛おしかった。
でもこんな時間は長くは続かない。ピースのフィルターをティッシュに包んで捨てたら、コンタクトを入れて、無難な
下着を着けて、朝ご飯を食べなきゃいけない。そのころにはTVのニュースキャスターは神妙な顔をしてニュースを読ん
でいることだろう。何かの役にたたなきゃいけないって大変だな。画面の向こうのニュースキャスターを見てると毎日
同じように同じようなことを考えた。けれど肝心のニュースは聞いた端から忘れていった。だってどこで誰がなにして
ようが、啓には関係なかったのだから。どこで誰がなに言ってたって、啓を殺してくれるようなことはないのだから。
ベランダのコンクリートにピースを押し付け、啓は細めていた目を開いた。涼しい風が短い髪の毛を揺さぶった。低い
ところで鳩が鳴いていて、室外機が頼りなげに回っていた。白い月の形がはっきりと見えてきた。
(…月齢23ってとこかなあ。下弦の月は出来すぎてて好きじゃないけど…)
しばらく、型で抜いたような半月を見つめてから、一度大げさに頭を振った。朝の時間と別れられるように、そう思っ
て。吸い殻を拾って窓を開けると部屋のぬるい空気が身体にまとわりついた。生ぬるいこの空気が、啓の生きている場
所だった。
「塩田ー。」
「はい。」
今日も担任は面倒くさげに出席を取っている。事務的にならまだしもこの担任は本当に面白くなさそうに出席を取る。
そんなにやりたくないのなら、やらない方がいいよと言ってあげたくなるくらいだ。出席なんて単純なことでも、自分
を苛立たせるようなことなら逃げないといけない。健康に悪いことはしない方がいい。
「畠崎ー…。あいつは、またいないのか…、まったく。」
担任は忌々しげに眉をしかめた。畠崎は最近学校に来なくなった女の子だ。啓はその理由をよく知らない。まわりの女
の子の噂によると「大学生の彼氏が出来て調子に乗っている。ブスのくせに。」ということらしい。余談だけれど、女
の子の中には自分の気に入らない子をブスと評する子がいる。しかも何故だか決まって語尾か語頭にブスとつけるもん
だから、とても分かり易くて稚拙なのだった。
「誰か、畠崎のこと聞いてないか?」
担任は苛立たしさを隠さずにそう言う。担任は畠崎が来ないときは必ずこの科白を言う。何回言ったって、返事が返っ
てきたことがないのは分かっているはずだ。けれどこれを言わないと話が進まないとでも言いたげな雰囲気で、その時
の担任は教師というより、本当に何かの役者に見えた。
「ほんとに、あいつは自分の出席日数分かってんのかよ。でも他人事じゃねえぞお前らー。将来のためにも高校は卒業
しといた方がいいからな。」
(…なんだ。思った以上にありきたりな役。)
担任はどこかで聞いた程度のつまらない役に没頭しているようだった。クラスに一人はいる不良少女に悩まされている
担任。ドラマだったらこの後不良少女に街でばったり会ったりして、そこからこんこんと説教して、図々しく不良少女
のプライベートに踏み込んで、ちゃっかり事態を解決させたりするんだろう。もしくはAVだったら、不良少女のゴシッ
プを例の「誰にも知られたくなかったら〜」ではじまる脅しで押さえつけて先生×生徒の女子高生ものになるんだろう。
そっちの方が幾分わかり易いな。どっちにしろ、面白くはなさそうだから畠崎も迷惑するんだろうな。
担任が繰り広げる寸劇に飽き飽きしながら啓はため息を吐いた。こんな詰まらない話につき合わなきゃいけないなんて、
女子高生がこんなに閉じ込められた存在だなんて、ここに来るまで啓は知らなかった。昔想像した女子高生ってもっと
きらきらしてて楽しそうだったけど、現実はいつでも理想のずっと手前にいる。
「高校も卒業しないでどうやって生きてくんだ。おい、お前達のために言ってるんだぞ。」
「すみません!」
「な、…なんだ。どうした、阿部。」
「すみません。ちょっとお腹痛くて、トイレ行ってきます。」
「おう…そうか、行ってこい。」
いつまで聞かされるのかと思った担任の寸劇は、女子生徒がトイレに立ったことをきっかけにあっさり収束した。トイ
レに立つ時、面倒な理由をいちいち考えなくていいのが女の特権の一つだと思う。これが男子生徒だったらお腹が弱い
のなんのとからかわれそうなものだけど、女のトイレ事情を男が深く突っ込むことはない。デリカシー云々の問題以前
に、女の腹の内のことなんて男は考えたくないんだと思う。自分にはない見知らぬ臓器なんて、きっとおぞましいに違
いないから恐れているのだ。
トイレに立った女子生徒をきっかけに担任は話の腰を折られてしまったので、畠崎についての話はそれまでになった。
そこからすぐに一限の現国担当の教師が来たので、担任は慌てて教室を出る準備をした。現国の若い女教師に、うちの
中年男の担任は弱い。そのわかり易い構図に啓は口の中だけで小さく息を吐いた。現国の女教師は教壇に登る前に小さ
く一礼をした。たったこれだけの動作でうちの担任との格を見せつけられた気分になって、啓は今すぐA組をやめてし
まいたくなった。成績順の組み分けで一番上のA組になったことが嬉しかったのは最初だけだった。頭がいいのと人間
ができてるのとは別の話だなんて、そんな簡単なことに気づけなかった自分も憎い。女教師はB組の担任だ。どうして
自分はB組に行けなかったんだろう。今さらどうしようもないことをうだうだ考えていたら、いつのまにか現国の授業
がはじまっていて、啓は急いで教科書を開いて文章を眺める振りをした。こういうポーズばかりが上手くなっていく気
がして、自分で自分に辟易した。
右手のシャーペンは一度宙を描いたが、諦めたようにノートに着地していった。
そういえば、阿部は戻ってこなかった。後から聞いた話によると、トイレに席を立ってからそのまま保健室に行ったら
しい。本当に具合が悪いのかどうかは、知らない。
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