昼休み、啓が屋上に行くと先客がいた。先に言っておくと、うちの学校は屋上への出入りは禁止だ。でもそれ以前にニ
号棟の屋上はほとんど貯水槽しかない上に壁も高く、景色なんかちっとも見えないから、たとえ出入り自由でも人はそ
うそう寄りつかなかったと思う。
「…おや、まあ。優等生の塩田啓は貯水タンクにも興味があるなんて、流石だね。」
「仮病の阿部瞳に言われたくないな。なに吸ってんの?」
先客は芝居がかった言い方で啓に尋ねたが、啓は驚くでもなく瞳に近付いた。屋上で誰かに会うのははじめてだったけ
ど、瞳の方も火のついた煙草を手にしているくせに、特に慌てた様子もなかった。互いに、誰かに会えるのを待ってい
たのかもしれない。瞳は堂々とタンクの上に乗り上げていたけど、啓はタンクから突き出た太いパイプに腰掛けた。人
が入れる隙間は少なくて、座れるような場所があっただけありがたい。元々タンクの隙間を縫うようにしないと進めな
いような場所だった。女子高生が二人と、屋上と、煙草。役者が揃ったようで啓は少しだけ興奮していた。顔には出な
かったけれど内心どきどきしていた。瞳は啓に向けて、煙草のフィルターが見えるように持ち直した。質問には答えて
くれるらしい。
「中南海。知ってる?中国の煙草。ちなみに仮病じゃないよ。歴とした二日目。」
「ちゅうなんかい?知らないや。でもなんかマニアックな煙草だね。二日目ったって、ロキソニンがあればどうだって
なるでしょ。」
「わたし喉弱くってさ、これは漢方薬が入っててね、喘息が出にくいんだ。確かにロキソニンがあればどうだってなる
けど、生理なんて理不尽なシステム、仮病でも使わないと採算が合わないでしょ。」
啓と瞳は一度に二つのことをしゃべっていたけど、どちらの会話も上手く続いた。これも女子高生ならではだったりす
るのだろうか。
「一本ちょうだい。漢方薬の味するの?確かに採算は合わないけど、あのタイミングだったからさ、担任の下らない寸
劇をさっさと終わらせたいのかと思った。」
「…………………。」
「どうかした…?」
突然瞳が黙りこんでしまったので、啓は尋ねながら顔を上げた。瞳との非日常な邂逅に少し自分が浮かれているのが分
かっていたから、なにか言葉を選び間違えたかと思って急に不安になった。でもいざ顔をあげると、瞳の色素の薄い目
が予想以上に近くにあって驚いた。
(…え?)
虹彩がどんどん透明になっていくみたいな、啓が今までに見たことのないきらめきが瞳の目の中にあった。目が離せな
かった。瞬きも忘れてしまって、睫毛を一本一本数えられそうなほどの近さだった。
(なんだ?どうしよう…?)
やっぱり、なにか言っちゃいけないことを言ったのだろうか。いい感じだと思ったのに、失敗した…?啓の頭が混乱に
揺れはじめた頃、突然唇になにかがあたった。驚いて身を引くと、瞳が啓の唇に中南海のフィルターを押しつけていた。
「びっくりした…。なんで分かったの?…そうなんだよ。塩田がはじめに言ったさ「仮病の阿部瞳」大正解だよ。だから
これはあげる。吸いかけで悪いけどさ。あ、でも、二日目なのも本当だからね。全部が嘘ってわけじゃないんだよ?」
瞳から目が離せないまま啓は素直に押しつけられたフィルターをくわえた。中南海は漢方薬臭さはなかったけれど、独
特の風味で、有り体に言うと変な味の煙草だった。でもそれより、嬉しそうな瞳の顔からまだ目をそらせなかった。前
髪の影が目蓋に落ちて、妙に艶っぽく見えた。啓が昔想い描いたような、きらきらのエネルギーを放っている女子高生
がそこにいた。
「あいつのさ、お前達のためっていう言い方がさ、今日はだめだったんだ。いつもはここまでひっかからないんだけど
やっぱ二日目だからかなあ。保健室で寝てても全然冷静になれなくてさ、ここへ来ちゃった。」
瞳は空を仰いでそう言うと新しい煙草に火をつけた。長いのにふわふわ軽そうな瞳の髪が誇らしそうに風になびいてた。
ふううっとゆっくり、気持ち良さそうに煙を吐く瞳は、とても二日目には見えない爽快さだった。
「煙草を吸うと冷静になれるの?」
「いや、そうゆうわけじゃないけどさ、でもこう、毒を取り込むことで心のどっかが落ち着く感じはあるよね。薬じゃ
だめ。もう毒じゃないとどうにもならないような、よく分からないのに強烈な心が、私のなかにはあるよ。」
啓は煙草を「毒」と言いきる瞳に内心ぎょっとしながら、中南海の続きを吸った。瞳を真似てゆっくり息を吐いた。毒
が必要な瞳が吸ってるのが漢方薬入りの煙草なんて、矛盾しているようではあったけど、啓はもうその矛盾までもを好
ましく思いはじめていた。喘息持ちでも煙草が、毒が、どうしても必要だという言い分がよく分かる気がした。
そう、女子高生って、強がってても脆いのだ。女子高生の理論も筋も、通ってるようで、通ってない。だから、なんだ
かものすごく中途半端な生き物なんだ。吸ってる空気さえ生ぬるいんだ。だけど…
「だけど阿部は、すごい美味しそうに煙草吸うね。」
その姿が羨ましくて啓は呟いたが、瞳には届かなかったのか、返事は返ってこなかった。瞳は煙を吐ききった姿勢のま
ま、満足そうに目をつむっていた。透けるように見えた虹彩が隠されてしまったのが、少しだけ残念だった。
そのまま昼休みは終わって、二人はA組の教室に戻った。教室に戻ると啓と瞳は屋上とは別人格のように優等生の皮を
被った。瞳は啓を「優等生の塩田啓」と言ったけど、瞳だって啓とほとんど成績は変わらないA組の一員だった。二人
は次に会う約束をしなかったけど、それはお互いに約束がなくてもまた会える確信があったからだ。少なくとも啓はそ
う考えていて、実際、それ以降二号棟の屋上で約束もなしに瞳と会うことがちょくちょくあった。無骨な貯水タンクの
間の狭い隙間が、二人だけの喫煙所になった。
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