「ねえ…?塩田は好きな人居る?」
雲の多いどんよりした日だった。瞳は今日も中南海を片手に何気なく啓に尋ねた。この日は啓もピースを学校にまで持
ってきていた。しばらく無言のまま、煙草を吸う息づかいだけが空気を満たして時間が過ぎた。どうしよう…。
その科白に啓は嫌な顔を隠せないまま瞳を見た。あんたもそう言うこと聞くの?何も言わなかったけれど、瞳にはその
意図が伝わったらしい。
「こういう話は嫌い?」
啓はすぐには答えられなかった。嫌いというか、苦手というか、とにかく啓にとって言葉に詰まる話題であることは確
かだった。だから慎重に言葉を探した。
「……誰も彼もが、人を好きになるとは限らない、と思うから、その聞き方は好きじゃないな。」
「塩田は人間嫌い?」
「そこまでじゃないけど…、でも、ものすごく嫌いな人がいないみたいに、好きな人もいない、な。」
「ふふ、優等生様は意外と正直だ。いいね、かわいい。」
「かわいいは余計だよ…。」
瞳は啓の答えを気に入ったらしく、ふふふ、としばらく穏やかに笑っていた。啓は馬鹿にされてると思ったけど、瞳が
あまりに柔らかく笑うので無理には止めなかった。
啓にとって、そういう意味で人を好きになったこことがないのはもはやコンプレックスと言ってもよかった。でもどう
考えてみても人を好きになること自体がよく分からなかったのだ。誰かに夢中になるとか、誰かのことで頭がいっぱい
になんて、なったことがなかった。それに他人なんかより自分の身の方がよっぽど可愛かった。啓はまわりの女の子た
ちの彼氏の話にも全然ついていけなかった。一度処女を捨ててしまうと女の子たちは突然大きな声でセックスの話をす
るようになった。あれはなんの自慢なんだろう。自分が女として、一人の男を捕まえたのが嬉しいのだろうか。だった
ら、トンボを捕まえた小学生と変わりゃしないじゃない。多分ヴァージンを苛めたいのだ。私はもう処女じゃないの、
というのを言い回ることで、それをあえて処女に言い回ることで、どれくらい自己顕示欲が満たされるのか啓は知らな
い。けど、そういう話をする女の子はみんな、どこか誇らしくて、なのに薄暗かった。その暗い悦びに満ちた顔は啓を
うんざりさせるには充分だった。どんどん、品がなくなっていくのが嫌いだった。お前が捨ててきたのは処女じゃなく
て品性なんじゃないのかと疑いたくなるような話ばかりが溢れていた。
「そうだよねー。そもそも、好きってなんなんだろう。よく分かんないや。」
「そう、だよね。分かんないよね。」
だから瞳からこう言われた時、啓はとてもほっとしたのだ。なのに…
「けどね、私さ、すっごく気になる人がいるんだ。」
(あ…)
瞳のこの一言で、啓は瞳が急に遠くの人になってしまった気がした。同志というには日が浅いけれど、やっと感覚が近
い人に会えたと思ったのに。小学生の時につくった「秘密基地」が、やっとここにもできたと思ったのに。ピースがゆ
っくり燃えていくのを啓は見つめた。煙草は火を着ければ、吸わなくても意外と速く燃えてしまう。啓の意思とは無関
係に、自然の法則に従ってじりじりと短くなる煙草を見つめていたら、まるで全てに置いていかれたような気分になっ
た。
「塩田…?どうかした?」
いつまでも煙草を見つめている啓を見かねて瞳は言ったが、啓はなにも言わない。
「おーい、しーおーたー?なに?私なにか失敗した?」
「あ、ごめん。違う。違うんだ。なんでもない。」
「そう?ガム食べる?」
「…なんで、ガム?でも、うん、まあ、食べる。」
「おいしいよ。マスカット味。ガムはねえ、マスカットが一番!」
「…ふふっ。なにそれ。」
笑顔を崩さない瞳に気を遣われているのは分かっていた。でもその気遣いをないがしろにしたくはなくて、全くそんな
気分ではなかったけれどマスカットのガムを口に入れた。爽やかな香りが口に広がる。味の濃い美味しいガムだった。
たかだか好きな人がいるかという問いに、どうしてこんなに言葉が詰まってしまうのか、啓には分からない。受け流し
てしまえばいいのに、それもできない。
「言葉にできない見えない気持ちは、噛んで飲み込んじゃえばいい。」
「………!」
瞳のその言葉に啓は見透かされた気持ちになって、悔しくて、清々しくて、目の奥が震えた。でもどうしても瞳に涙を
見せたくなかったから、ぐっと奥歯を噛みしめて、勢い任せにガムを噛んだ。どんなに強く噛んでも爽やかなマスカッ
ト味しかしないのが、皮肉じみていて少しおかしかった。

啓はその日、生まれてはじめてガムを捨てずに飲み込んだ。喉に引っかかったのは一瞬で、あっという間に胃の中に落
ちてしまった。なぜだか、煙草を吸うよりずっと、やってはいけないことをした気分になった。