あの日は妙に気分が急いていた。なにもないのに何故だか焦っていた。何回も消しゴムを取り落としたし、シャーペン
の芯がよく折れた。きれいにとっている世界史のノートに、突然ぐちゃぐちゃのページを書いてやりたくて仕方なかっ
た。いつもは気にならないのに、空調の機会音が耳についた。誰かの陰口ばかりが聞こえる気がして、まだなにもして
ないのにとても疲れていた。もう帰りたい…。二限が終わるころにはそれしか考えられなくなった。六限が終わるまで
は長過ぎる。でも、苛々しすぎるので早退させてください、なんて言える訳ない。
今日に限って瞳は欠席していた。二号棟の屋上には誰もいない。今日は、煙草も持ってきてない。
啓はぐっと唇を噛んだ。どこから来たかは分からないけど、この殺伐とした気分は危険だった。何が一触即発になるか
わからない。とても些細なことでも駄目になってしまう予感があった。なんとか耐えないといけない。こんなところで
無様な姿を見せてたまるか。どうして今日は阿部が来てないの?この理由のない苛立ちを誰かのせいにしてしまいたか
った。駄目だ、痛みが足りない。もっと唇を噛んだ。
よく苛立っていたり落ち込んでいたりする人に、なにかあったの?と聞く人がいるけど、啓の場合、なにもないから、
というのが正直なところだった。そう、なにもないのだ。自分はなにも持ってない。突然そんな焦燥感に襲われること
があった。自分という存在が自分でもうまく認識できなくて、塩田啓という名前にすら自信がなくなった。身体がスカ
スカのスポンジになってしまったかのように、立っているのが不思議なくらい密度が足りていなかった。そんな人間は
はじめからいなかったと言われても受け入れられてしまいそうだった。
また、机から消しゴムが落ちた。とうとう啓はそれを拾うこともできなくて、足元にある消しゴムをじっと見つめた。
消しゴムの体積にさえ、負けてしまいそうな気がした。
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