いつもより早い時間の電車に乗ったため、帰りの電車にはほとんど人がいなかった。啓の乗った車両には離れたところ
にもう一人座っているだけだった。椅子に座ると、急に緊張が解けた啓は、そのまま長椅子の上に倒れ込んでしまった。
ぽすんと軽い音をたてて、赤いさらさらした生地が啓を受け止めてくれた。なんだか今日は、とっても疲れた…。
そのまま起き上がれないでいると、ゆっくりと電車が動き出した。まるで啓に気を遣うように、えんじ色の古い車体は
そっと動き出した。ゆっくり進む鈍行に揺られていると、まるで電車にあやされているように思えておかしくなった。
「ありがとう。お前は優しい子だね…。」
おかしいついでに啓は電車にお礼を言った。ちゃんと声に出して言った。鈍行に乗ってしまったので、家に着くまでは
倍以上の時間がかかってしまう。せっかくだから存分にこの優しい電車に甘えてしまおうと啓はゆっくり目を閉じた。
柔らかい夕陽が車内を静かに照らしていた。










(どこだ…?)
目を開けると、啓は見知らぬ駅にいた。どうやら優しい電車に甘えすぎてしまったらしく、降りるはずの駅はとっくに
過ぎてしまっていた。ああ…やっちゃったな。でも終点まで来なかっただけ運がよかっただろう。急いで電車を降りて
確認すると乗り過ごしたと言っても五、六駅程度だった。これなら引き返すのもそんなに時間は掛からない。啓は優し
い電車に小さく手を振ると、ゆっくりホームを歩きはじめた。たった数駅と言っても普段まったく使わないこの駅は見
慣れないものばかりだった。近くにあるものほど、知らないことは多い。
ぐっすり眠ったあとだったので啓にはいろんなものが新鮮に見えた。待合室の椅子の形や、フェンスの質感、自販機の
品揃えまでが鮮やかに目に入ってくるようだった。夕焼けのオレンジと夜の紫がでたらめに混ざりあって空は不思議な
色をしていた。線路に転がる石のひとつひとつが律儀なくらいにその色を反射していた。夕闇の怪しさが啓は好きだっ
た。特に今日は空が非日常な色をしている。いつもは許されないことまで許されてしまいそうな、そんな空気を思い切
り吸い込んだ。

あたりを見回しながらきょろきょろしていると、線路の向こうに雰囲気のある喫茶店が見えた。ブラウンがかった窓が
お洒落だ。遠くてちゃんとわからないけど、室内には大きなソファがいくつか見える。テラス席も広そうで、気持ちの
よい風が通りそうなところだった。
(いいな。家の近くにもああいう喫茶店ほしい…。)
美味しい煙草が吸えそうだ。
悪いことができそうな気分だったので、啓はまず真っ先にそう考えた。あとは、そうだな。いい風が吹く日に、テラス
で適当な本をお供に、ただただ時間を過ごすだけでもいいかもしれない。ついでに美味しいダージリンとチーズケーキ
でもあれば最高だな。啓は高校生にはできそうでできない贅沢を想像しながら、跳ねるように数歩歩いた。そういう日
は何を着ればいいんだろう。さすがに白いワンピースは気取り過ぎかな。シャツとデニムに少しヒールのある靴で、化
粧をしてれば大人に見えるかな。まだ行ったこともない喫茶店のドアを優雅に開ける自分を想像した。どういう服を着
るのが一番かを真剣に考えはじめたとき、急に啓の目はテラス席に座った人物に焦点を合わせた。
(…へ?)
一瞬見間違えたのかと思って、何度か瞬きをした。自分の目が、さっきまでの妄想と現実を混在してるんじゃないかと
不安になったのだ。 ついでに頭も振って、もう一度大きく目を開いた。
(なんだよ…?)
さっきまでの素敵な飴色の紅茶と焦げが美しいチーズケーキが、瞬時に現実に吹き飛ばされていくようだった。



夕暮れの闇に紛れてはいたけれど、そこで穏やかに笑っていたのは、どっからどう見ても学校を病欠しているはずの、
阿部瞳だった。