(なんだ…。そういうこと…。)
急速に、頭が冷えていくのを感じた。夕暮れ時の冷たい風に全身をくまなく冷やされていくようで、指先から内臓にい
たるまで、しんと静かになっていく気がした。冷蔵庫に入れられたらこんな感じかもしれない。血が回らなくなったの
か、視界が歪んだような気もしたけど、なんとか倒れずに立っていた。瞳の隣りには、瞳と同じような顔で、穏やかに
笑う青年がいた。
(気になる人…。そっか、よかったじゃん。)
学校を病欠するのはどうかと思うけど、啓は不思議と瞳に腹が立たなかった。でも、なんだろう。うまくいえない気持
ち悪さが、ぐっと喉元までせりあがって来るのを感じた。
別に学校を休んでまで、男に会いに行ったっていいと思う。瞳は瞳だ。私じゃない。自分の時間は自分で好きに使う権
利がある。それは高校生だってそうだと思う。学校も親も自分で選んだ訳じゃない。だからたまにはそこから飛び出し
たっていいと思う。一日の中に、今日の夕焼けみたいな不思議な色があるみたいに、そういう怪しい色を孕んだ楽しみ
も生きる中には必要だ。あれ、でもなんだ?そういうことじゃなくってさ…
啓の頭は煙草の煙が充満して行くように、だんだんと靄がかってきていた。うまく回らない。
(でもそう、今、私が驚いてるのは、瞳が何を考えてあそこに座っているのかが、全く分からないっていう…そのこと
だ…。)
学校を休んでまで、男に会いに行っていた瞳の気持ちが啓には全く分からなかった。誰かを好きになるってそういうこ
となんだろうか。自分に危険をおかしてまで、自分を犠牲にしてまで、誰かに会いに行きたいと思うのだろうか。そこ
まで考えると、もはや瞳がなにか不思議な生き物に見えてくるようだった。たとえば、肺呼吸のヒトが、魚類のエラ呼
吸を全く想像できないみたいに、啓には瞳の気持ちが分からなかった。
靄がかる思考の中で、啓はそれでも瞳の考えを探ろうとした。瞳がなにを考えて、今あのテラスに座っているのか。多
分、間違いなく隣りの男は瞳が言ってた「気になる人」だろう。彼がどういう人物なのかはまったく知らないけれど、
けどこんなに遠くからでも二人の間に流れる空気がとても穏やかで優しいものだというのは分かる。瞳は随分、過小に
彼への気持ちを言ったんだろう。「気になる」だなんて、なんだよ。「好き」なんじゃない。で、その人と、学校を病
欠するリスクまで侵して…
(…その人と笑ってたかったんだよね?)
その考えに至ったとき、もう、本当に駄目かと思った。さっきの紅茶とチーズケーキ、まだ食べてなかったのにもった
いなかったな。なんて、的外れにもほどがあることが頭をよぎった。
啓は、学校を休むリスクを負ってまで男と会うことを選んだ瞳の行動に驚愕していた。同時に自分に決定的に欠けてい
るものを見せつけられた気がして、ショックだった。まだ高校生だよ。焦ることない。そう自分に言い聞かせてきたけ
ど、どこをどう掘り起こしても、自分の中にそんな感情が見つからなくて愕然とした。啓には、どこを探したって、学
校を休んでまで会いたい人がいなかったからだ。
「どうしよう…。私、私以上に誰かを好きになれないよ。」
口からこぼれたのはずっと蓋をしていた本音だった。そう口に出した時、抗いようのない絶望感が啓に押し寄せた。な
ぜならそれを認めてしまうと、啓が嫌ってきた担任や、セックスの話を大声でする女の子と自分が同列になってしまう
からだ。だって、そういう人たちのなにが嫌だったって、自分のことしか考えてないところだったんだから。
担任の言う「お前達のため」という言い方大嫌いだった。それは自分の理想を相手に押し付けるときに出てくる言い訳
だったからだ。女の子たちの「私はあなたより進んでいるの」という視線が可哀想だった。それは自分の身体を犠牲に
してまで手に入れたものが、自分のための優越感だったからだ。でも、学校を休んでまで会いたい人の居ない啓も、今
まで見下してきた人たちと変わりなかった。啓の頑な防御も、結局は同じなのだ。それを瞳に見せつけられた気がして
いた。瞳がリスクを冒して手に入れたものは、好きな人と笑いあっている時間だった。そんな優しい選択が、啓にはで
きる気がしなかった。どこまで行っても自分は自分の身が一番かわいいだろうという確信があった。だって他人の考え
ていることなんて分かる訳ないじゃない。当たり前だ。分からないものを信じるってどうすればいいの?全く検討がつ
かない。
(なんだ。私って本当に自分のことしか考えてないんだ。)
啓は、清々しいくらいの、自分の本音に出会ってしまった。瞳が本当の本当に、遠くの人になってしまった気がした。
瞳はすごいな…。純粋にそれだけを思った。全く腹が立たなかったのは、啓が完敗していたからだ。どうやったって勝
てそうにない。それが分かった時、むしろ気分は爽快になって、啓はまっすぐに瞳のことを見ることができた。穏やか
に笑う瞳を見ていると、ぽろりと一滴、涙がこぼれた。
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