冷たい空気を感じて、啓は目を開けた。昨日の乱れた心が嘘みたいに、精神はしんと冷えて、落ち着いていた。顔は涙
で引きつっていて痛いし、声は掠れきっているし、左手はかぴかぴしてるし、制服のまま寝てしまったのもあって、ベ
ッドの上はそれはもう酷いことになっていた。啓はすぐさま全部の服を脱いで風呂場に駆け込んだ。浴槽の湯は冷えき
っていたので、頭からシャワーを被る。本当は水風呂だろうがなんだろうが飛び込んで、そのまま溺れてしまいたかっ
たが、啓の身体が許さなかった。身体はいつでも容赦ないほど、生きることを考えている。
風呂場の椅子に座ってしまうと、啓はまた動けなくなった。温かいシャワーがうなじにあたって、首の後ろから全身に
向けて水が流れ落ちた。そういえば、急ぎすぎて風呂場の電気もつけていなかった。窓の外からうっすら入ってくる光
で、自分の身体を見た。輪郭が溶け出してしまいそうに朧げなくせに、稜線までよく見えた。深爪の脚の指も、尖った
踝も、腕に三つ並んだほくろも、見慣れた自分の身体だった。
生きてる…。
まだ頭は働かないが、自分が生きていることを強く感じた。啓の意思に関わらず、啓は生きてる。ずっとそうだったの
に、今まで疑問にも思わなかったな。でも、これでいいんだよな…。
シャワーの熱に身体が馴染みはじめて、目をつむった。目をつむると身体をなぞっていく水の感触と、弾ける水音しか
聞こえなくなった。しばらくそうしていると、このまま朧げな輪郭が溶け出して、水になって排水溝に落ちてしまいそ
うな気がした。水になった自分は、なかなか悪くなかった。川に出て、海に出て、空に登って、落ちて、またシャワー
の水になって、何かを、誰かを、洗い流すのだ。
今、啓の身体に降注いでいる水にも、かつての誰かの想いが入っているのかもしれない。
啓は目を開けた。さっきより日が昇っていて、自分の身体がよりはっきりと見えてきていた。シャンプーのボトルをプ
ッシュした。少し多く出しすぎて、頭に乗り切らない泡がこぼれた。それでも構わず洗い続ける。指を立てて、頭皮を
がむしゃらにかき回すのは気持ちがよかった。大量の泡を流しきると、煙った感覚が、少しだけクリアになった気がし
た。傷つこうとする自分も、洗おうとする自分も、どっちも私でいいじゃないか。
風呂から上がってバスタオルを巻く。いつも通りの感触だった。そのまま部屋に戻って、無難な下着を探す。シャツを
着終わったところで窓を開けた。月はどこにもない。夜の気配はすっかり遠のいていて、静かに朝がやってきていた。
ベランダに出ると、柔らかい風が濡れた髪を撫でた。風を受けて冷える髪の感触は心地よかった。こんな、なんでもな
いベランダにもいい風が吹くのだ。朝日は進んで行く。啓を待ってくれない。
そろそろTVをつけたらいつものニュースキャスターがきっと今日も神妙な顔でニュースを読んでいるだろう。でも啓は
TVをつけなかった。家族の誰にも会わないようにして、啓は家を出た。